大学4年の夏休みに、私は北海道を1周する一人旅へ出かけました。そして、最終日には私が一番行きたかった二風谷へ行ってきました。
二風谷は「二風谷ダム建設問題」で一時話題となった場所。なぜ問題になったかというと、ダムを建設しようとしていた場所が、アイヌの聖地とされる所だったからだ。
結局、完成したダム。
バスで二風谷へ向かう途中で私の視界に入ってきた時は、なんとなく胸がモヤっとします。
私はずっと、小学校高学年ぐらいの頃から「アイヌの聖地へ行ってみたい」と思っていました。確か、歴史かなんかの授業で、アイヌの人々のことを知り、そこから漠然とした興味がずっと頭の片隅にありました。
この一人旅は、小さい頃の夢を叶えるものでもあったのです。
二風谷に着くと、まず「二風谷アイヌ文化博物館」へと足を運びます。
「私がずっと見たかったものはこれだなァ」と、一人で静かに感激。しっかりと目に焼きつけて帰ろうと意気込んで展示を見て回ります。
おそらく、佐賀でアイヌ文化の展示はあったことがありません。社会の資料集に載っている写真以外で、実物を見たのは初めてでした。
一通り回って外に出ると、「チセ(家)」が立ち並んでいるのが見えました。
伝統文化財に指定された「イタ(お盆のこと)」を彫る様子を見学できる「チセ」があったので、私はちょっと見ていく事に。博物館の中に展示してあった「鱗彫り」という技術がすごいなぁと思い、それがどういう風に彫られているのか気になったのです。
イタを彫る男性
中に入ると、一人の男性がイタに模様を彫っているところでした。
男性が彫っているところをまじまじと見すぎたのか、その男性が話しかけてくれました。
「こういうの、興味あるの?」
突然の質問に、私は小学生の頃に歴史の教科書かなんかでアイヌのことを知って、二風谷に行ってみたいなと漠然とながら思っていたということを伝えます。
その日ちょうど二風谷イタを掘っていたのは、カイさん(仮名)というアイヌの方でした。父親がアイヌ人で母親は九州出身の日本人です。
「この模様には何か意味があるのですか?」
私とカイさんが話をしていると、ちょう4、5人観光客が見学に入ってきました。私は後ろの方に下がって、そのやり取りを観察することに。
「確かに、基本的な模様に関しては意味があるし、それを意識してはいます。でも、全部に意味をもたせていたら、真面目になりすぎてさ、疲れちゃうでしょう? (笑)」
と、カイさんは笑いながら印象的な返答をしていました。
そのやりとりを見て、「あ、なんかちょっとわかるかも」と私も思いました。絵を見せた時に、絵の中にあるモチーフの説明をいちいち求められ、「も〜。別にここに赤色があったって、ここにカサがあったっていいじゃーん。何となく、イイ感じになっただけなんだけどな」と、ちょっと嫌気がさしたことがあったのを、思い出したのです。
確かに鑑賞者側からすると、
「これはどういう意味なのか分からないから知りたい」
「作者がそこにいるから質問したい」
という気持ちは、分からなくはない。
でも実際、私の場合は「なんとなくこれがいいと思った」という感覚で描いていることが多いのです。「考えるな、感じろ!」ってやつですね。
思うに、それは別に絵じゃなかったとしても、日常生活を送る中で「なんとなくこれがいいと思う」という瞬間はたくさんあるのではないかと思います。
「この色のアイシャドウを使ったら良さげな気がする」
「なんとなくコーラが飲みたい気分」
「なんか知らないけど、ここに行ってみたい」
とか。
そしてたまに、人はその行動をとった意味を理由づけしたくなります。「その選択をした意味や理由」は、後付け説明しているだけなのかもしれません。
絵に関しても同じような気がします。絵の中のモチーフ(具体的な造形要素)や色など全部に、いちいち意味はついていません(私はね)。頭のいい人だったらできるかもしれないけれど、少なくとも、私はもう疲れちゃいます。
じゃあ、それは無意味なのか言われると、そういうワケでもなくて。それがなければこの作品は成り立たないから、無意味でもないのです。全てに意味をもたせちゃった絵は、なんだか説教くさいし、偉そうだし、権威的な感じがして、個人的にあまり好みではない、というのもあるかもしれません。
話を戻すと、
「アイヌ」というマイノリティには、
「何か貴重なものがあるでしょ」
とか、
「これには何か大きな意味があるはず」
だと、多くの人は思い込んでいる。私も実際、そんな感覚はあります。漠然と「アイヌかっこいい!」ってこの歳になるまで思っているし、なんなら今も思っています。
ずっとこの場所で作業しているカイさんは、観光客からもう何千回と同じ質問をされているのでしょう。
「全部に意味があったら疲れるでしょ?こんな模様を彫っちゃうなんて、昔の人はヒマだったんですかね(笑)? 楽しいからやってるだけですよ、きっと」
こんな感じで笑いとばしながら、観光客の求めていた答えや期待を裏切る回答をしていて、ちょっと拍子抜けしている人もちらほら。
「でも、なんか言ってくる人とかいませんか?伝統云々、とか」
「そういう時はね、学芸員の資格を見せる。一応持ってるんだよね。そうするとね、「学芸員さんの言っていることだから…」って納得してくれるんだよ、これが(笑)。学歴みたいなものって、その人が「どういう人物か」を計る時に使う、分かりやす〜い“モノサシ”だからね」
「なるほど〜」
カイさんの言うことに納得してしまいます。
「なぜ、「アイヌ」と聞いただけで、特別感や貴重さ、意味を求めるような捉え方をするのかなって思うんだよね」
貴重さや意味を求め、「こういうものはこうでないといけない」と勝手に思い込んでいて、望んでいた答えだと安心?感動?して、そうでないとがっかりする。
「確かにね、向こう(観光客側)からしたら、珍しいと思うのもわかるよ。相手のことを知りたいって気持ちや好奇心から質問しているのもわかる。でも同時にね、俺からしたらアイヌの日々は日常なんだよ。日常的・感覚的すぎて、説明できないこともあったりする。これってさ、みんなそうなんじゃないかな?」