実は私、今までCDアルバムを選んで買う・1枚のCDアルバムを聞く、というような事をしたことがありませんでした。
私は今20代半ばなので、CD文化の世代ではあるのです。ただ、自分の地元にはそういうものを取り扱っているお店はありませんでした。おそらく、今もそう。
隣町や市内に行けばCDショップはあるけれども、家族が積極的に連れて行ってくれるかといわれると、町のスーパーのように行くのが当たり前、という感じの場所ではありません。幼少期は誰か大人の車の運転がないと、幼児の足だけではどうしても町には行けませんからね。
もちろん、CDを聞く子やCDの貸し借りを友達間でやったりなど、CDが当たり前になっている子は周りにいました。ただ、みんなが聞いていた音楽にはあまりハマれず、かといって自分が聞きたいモノもよく分からず、そもそもどんな音楽がこの世にあるのかあんまり知らなかったので、そういうことにあまりピンときてなかったように思います。
高校は市内に通っていたので、CDショップがより身近になったかと思われますが、その頃にはスマホを持ち始めていたので、YouTubeで音楽を聞いていました。好きなものを寄せ集めただけのプレイリストを作り、ループ再生させるくらいですが。
こんな感じで、CDを選ぶ・買う・聞く、ということは特に身につかないまま、今の今までのらりくらりと生きてきました。
なんて話をボスにしたところ、今までCDを買ったり聞いたことがないなんて、もったいない!と思ってくれたのか、「じゃァ、帰りにでも寄って見てみる?」と、中古CD屋さん・ディスクユニオンに連れて行ってくれました。ディスクユニオンって、音楽ソフトを取り扱っているお店だったんですね。これも初めて知りました。
それで、私が好きなバンドのCDを何枚かと、私が好きそうなCDをボスに何枚か見繕ってもらい、聞いてみたわけです。感動もしましたが、同時に色んなことを考えさせられました。
私が今の今まで聞いてきた曲というのは、アルバムの中から出た「ヒット曲」というやつで、アーティストやバンドやらの一側面でしかなかったのだなということ。そのアーティストの「今」を表現した収録曲集。だからCD「アルバム」って言うんだな、と今更になって納得といいますか、痛感しました。
友人が例えてくれたのですが、その状況は例えばこんな感じです。印象派の画家・ルノワールが好きと聞いて、じゃァ同ジャンルの画家、マネやモネ、ドガやら他の印象派の画家はどうかと尋ねると、知らないと言うのです。ルノアールのその作品ピンポイントでしか知らなくて、下手したら「印象派」と言うジャンルすらも知らない。そんな感じ。
つまるところ、物事の認知の仕方の話にもつながるのかもしれません。時代性やジャンル・他との関係性などといった、そのモノゴトを取り囲む要素をすっ飛ばして、断片的に認知している状態。振り返ると、私はそういうモノの見方をしてきた事が多いような気がします。それが悪いとかは思いませんし、むしろそういう風に物事を捉えている人は増えていて、極めて現代的な感覚だと感じます。そして、そういう感覚を私も持っているんだな、なんて思いました。
あとは、故郷を出てから今まで幾度も感じてきたことではありますが、音楽に限らず、私の場合は美術館や本屋・図書館といった文化的・知的な場所ですが、同世代なのにそれが当たり前のように身の回りにある環境で生きてきた子と、そうでない人の「差」を改めて思ったり。
若い頃は、自分が欲しくて欲しくてたまらなかったモノを何の努力もなしに手にできた子に対して、嫉妬や劣等感といいますか、ねじれた感情をよく抱いていました。今は、そういう渇望があるからこそ、「なにくそ、私だって手にしたいんだ!」と奮闘する原動力にもなったし、手にした時の感動や思い入れも、きっと人一倍出るのだろうと思っています。
とまァ、CDひとつとっても色々考えさせられた今日この頃。
ちなみにですね、オルタナティヴ・ロックの一つ、グランジってやつに特にハマっています。それは、仕事で移動中にボスが車で流していた音楽で、聞いた瞬間「なんすか、この音楽!なんて言うやつですか?」と、すぐに聞いちゃうくらい、ビビっときました。ハードな曲調で叫び歌っているかと思えば、メロウな曲調にもなって、自由自在に変形する音にグッときたんですよね。
そして、CDを漁るのはすごく楽しいですね。最近のマイブームでもあります。これは古着・古本屋さんで服や本を漁るのと似ています。さらにもっと昔、実家にいた頃を思い返すと、離れにある小屋の中で、まるで宝探しでもするように古道具を漁っていた、あの感覚にすごく似ています。何が出てくるか分からない、あのワクワク感がたまりません。