私はある総合大学に通っており、芸術を専攻しています。普段は油絵と銅版画を主に制作しているのですが、総合大学という特徴を活用して、芸術以外の授業も受講したりしています。
正直、絵ばっかり描いてると飽きるんですよね…。
他学の授業で特に私の関心が高いのは宗教学。ぶっちゃけ、芸術の授業より好きかも…笑
でも私が「宗教学を受講しているよ〜」と言うと、周りの人からまぁ微妙な顔(?)をされる。その理由もすごーくわかる。
宗教「学」の方だと、まだ大丈夫のような気はするけど、「◯◯教を「信仰」している「信者」です」だと「ちょっとこの人…大丈夫かな!?」となる。
日本では何か宗教を信じている、特に新興宗教(学術的には「新宗教」らしい)だと、何かよく分からないものを盲信している困った人々、というふうに映りがち。
私は、間違いでもないけど、断定もできないなと思っています。
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話は戻って宗教学の授業を受講し始めたきっかけは、簡単に言うと、宗教が好きだから、に尽きると思う。気が付いたら好きだったかも。
では、なぜ好きになったのか。
それは、宮崎駿『風の谷のナウシカ』、上橋菜穂子『精霊の守人』や『獣の奏者』のような世界観に、私の「好き」の原点があります。
こういう作品って、ファンタジーでありながら、私たちがいるこの現実世界を基にした「二次創作」だと思います。
上橋菜穂子さんは作家でありながら文化人類学者で、アボリジニを主に研究しており、現在も大学で教鞭をとっています。
実際、研究者が作家活動をしている、というのは、上橋菜穂子さんだけでなく、そんなに珍しいことではないです。例えば、[太陽の塔]の岡本太郎さんもそうです。
世界の事について研究していると、自分でも創作したくなるのですかね。二次創作したくなるのは、その二次創作される作品が優れている証拠だと思います。
私たちの世界のどこかにある宗教、文化、歴史。それをもう一度、自分の作品の中で練り直して、土着の宗教、神話が再構築されている。
このようなファンタジー作品に幼い頃から親しんできたためか、私の描く絵はよく、直接的に「宗教画っぽいね」という感想を持たれることもあれば、または「象徴主義みたい」とか「幻想的だ」などとも言われることも多いです。
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もう一つは私の父方母方、双方の祖母の影響が考えられるかな。
彼女たちは私の目から見ると、熱心な仏教徒だ。まぁ、仏を信仰しているというより、先祖崇拝の方が強いけど。
それは置いといて、彼女たちのスピリチュアルな考え方や宗教的実践(例えばお墓参りとか)に小さい頃から触れてきた、し、結構それが苦痛でもなく、好きな方だった。
また私は、祖母のような人がまだまだこれからも居てほしいなと願っている方である。盲目的な信仰をしてる人、という意味ではなく、なんだろう、素朴な感覚?を備えている人?
日本の仏教にくっついてる先祖崇拝からそれは感じるかも。
彼女達はただ先祖崇拝をしてる訳でもないように見える。自分のルーツを大切にできているのかな。
どちらも普通の百姓の家系で、特別すごくはないけど、そんな自分のルーツを受け入れて誇りに思ってる所、すがすがしい思考だなぁと思う。
そのおかげか、幼少期の私には「あの祠はなんだろう?」「なんで獅子舞ってあんなに人を怖がらせてるのだろう?」「神社にある木っていつからあるんだろう?」「ここにも小さな神様がいるのかな?」という宗教・民俗学的な疑問や関心が、ムクムクと芽生え続けていた。
こんな風に、神道、仏教、キリスト教、民間伝承、土着的な風習などの、大きく漠然とした「宗教」みたいなものを、『風の谷のナウシカ』『精霊の守人』などのファンタジー作品から間接的に、祖母たちや育ってきた環境から直接的に、小さい頃から享受しまくった結果が、
「今の私だ!(ドーン!)」
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でも「信者」の方にはなれなかった。実は、なろうとした時期もあったのです。笑い事ではないと思いますが。でもなれなかった。
別に信仰心を持てなかったからといって、大して何とも思っていませんが、それはどうしてだろう?気に入った宗教があれば「信者」になりうる素質はあると思うのですが。
考えてみると、何か一つの団体に所属することに束縛感を感じていたので、それが要因かもしれない。
学校、大学とか会社とそれは似てる構造だ思うのですが、私の場合、何かに所属すると全然「自由」を感じない、し、そこからとにかく脱走したくなる。
正直、今も大学から脱走したいと思っている(笑)大学は好きですけどね。でも、どこにも所属しない生き方、放浪タイプなのかなと思います。山下清みたいな生き方をしたい。
もしくは、そもそも宗教的実践をするほどヒマじゃない。学生はこう見えてね、忙しい。自分の中で「to do」の優先順位が低かったのかもしれない。生活全般に宗教が侵食してきてほしくなかったのかもしれない。
その宗教の好きな部分だけを拾ってきて、自分に合った意味世界・意味システムを作りあげることができたから、その宗教はその時点で満足したのかもしれない。など。
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その選択をしたのには、いろんな要因が背景にあります。そのことを「学問」という一つの方法から知りたかった、それがまず一つの理由になると思います。