晴れたのは偶然か、必然か

新海誠監督の映画『天気の子』が2020年7月19日で公開上映からちょうど一年経ったらしい。

私はこの映画を見ていないのだが、すごい晴れ女の少女が出てくるストーリーだったはず。逆に私はすごく雨女で、小学校〜中学校の修学旅行は確か全て雨や曇りだった記憶。特に、中学3年の時の沖縄・修学旅行が雨だったのは、悲しかった。

2020年7月19日、7月に入ってからずっと雨だった東京が晴れた。Twitter上では、『天気の子』公開1周年の日に、奇跡的ともいえる晴れた空が見えたことで賑わっていた。

「ねえ、今から晴れるよ!」

という、あの印象的なセリフを思い出して、映画を見ていない私でも、その偶然的な出来事に心がフワッと興奮しているのが感じられた。

しかし、「偶然」的な出来事はどうして起こるのだろうか。

私は学者でもなんでもないので、難しいことは分からない。でも気になる出来事だったので、自分なりにちょっとだけ考えてみた。

まず「偶然は必然性が欠如している状態(wiki先生より)」で、一般的には、私たちが想像していたことをゆうに超えて現れる現象のことを言う。

でも「偶然の出来事」が大きくなると、その現象は人格・神格化してくることがある。

例えば、今頭に思い浮かんだのは平安時代の「清涼殿落雷事件」だ。絵巻物や歴史の教科書で見たことがある人も多いと思う。この事件は、菅原道真の怨霊によって落雷事件が起こされた、と言われている。

真実は分からないけど、「気象現象としての落雷」が「朝廷の役人たちの怪奇死」と「道真の失意の死」とで結びつけられたようにも見えてくる。

「偶然の出来事の大きさ」があまりにも大きすぎると、「必然」へとひっくり返ってくるのが面白い。「偶然は必然性が欠如している状態」にもかかわず、だ。

「偶然」と「必然」は裏表の関係。でも、「偶然の出来事の大きさ」が大きすぎても、「必然」へとひっくり返らないこともある。

例えば、地球に生命が誕生する確率の話を聞いた時。確か、プールの中に精密な腕時計の部品を投げ入れ、それを水の流れだけで組み立てるのと同じくらいの確率、とかそういう感じだった。

言っていることはわかるけど…。まず、想像できない。つまり想像をゆうに超えて現れている現象だから「偶然」といえる、けど。

あとは「認知」も関係あるよね。『天気の子』の話に戻るけど、『天気の子』を知らない人からすると、7月19日は普通の「久しぶりに晴れた日」だったはずだから。

「晴れの日」と『天気の子』の上映日が重なる偶然の日に、偶然にも私という一般人が「偶然」について考えたのも、偶然なのか。

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