口下手な自分の表現所は、「油絵」や「ドローイング」「銅版画」であったりする。
高校生で美術部に入部してから今まで、かれこれ約7年ちょっと、絵を描き続けてきた。もう7年か、と思うと同時に、まだ7年か、とも思う。
今から、芸術という広い領域の中の、特に「感情表現」にフォーカスして、自分の思うところを書いていこうと思うが、もちろんこれが表現の全てというわけではない。数ある芸術の「一面」に過ぎないという事を最初に述べておきます。
さて、7年の間、絵を描き続けて思うのは、「苦しみ」や「悲しみ」「絶望」「希望」「愛」「幸せ」などのような、大きくて抽象的で、答えの無いモノを表現するのが、一番難しいと感じている。
話はいきなり脱線。そして、これから書くことは、ちょっと捻くれた見方をしているかもしれない。
美術・芸術を学んだ学生時代、自分とその周りの人を見て思うことがあった。彼ら彼女らは、自ら「人嫌い」や「社会不適合」「病み(闇)」などを演じている?ような人が多い印象があった。
私の友人曰く、彼ら彼女らは「ファッション感覚」で「人嫌い」や「社会不適合」「病み(闇)」とかをうたっているんだ、と言っている(友人は鋭いぜ…)。
そういう風に言っとけば、「なんとなくかっこいい」し「なんとなく病んでいる」ように見えるし「なんか、芸術やっている人なんだなぁ」って、「普通(普通って何だよと思うが)とは違った人」というレッテルを周りが貼ってくれる、と思っているからだろう。インスタントな個性である。
もちろん、皆がそろってそうだった訳ではない事をお伝えしとく。
中には、何かに対して本当に悩んでいる子もいたし、病んでいる子もいたし、気難しい子もいた。ただ、上記のような人や上記グレーゾーンのような人も、よく見かけることが多かったなぁ、という感想を抱いただけだ。
かく言う私も、「芸術家ってこうあらねばならない」と言う、ステレオタイプじみた解釈をしていた時期があった。そういう黒歴史がある。
私は、真面目な部分が長所でありコンプレックスであるのだが、「真面目って…芸術家っぽくない!」と思い悩んだ時期に、「真面目に」真面目じゃないことをしていた(笑)授業休んだりとか、宿題やらなかったりとか、学校ある日に遊んだりとか…
それ、ただの不真面目や。カチカチな考え方を脱して、柔軟に工夫や発想をするのが当初の目的だったはずなのだが…。今思うと、色々と履き違えていて、お恥ずかしい。
それで、(ようやく話を戻す)そういう人が集まった場所では、私も含めた多くは、こぞって「自分が感じる苦しみ・悲しみ・怒り・疑問」などを表現した作品を作りたがる。
でも、ただただヒステリックに描き散らしただけの作品は、鑑賞者の心には響かないし届かない…と思う。作品に抱く価値は、人それぞれなので、断定はできないが。
一意見として、個人的にそのような作品を見ると、私は「かまってアピール」をされているように感じたり、その人の「地雷」を見たような気がして、生理的に避けたくなる衝動に駆られる。ずっと辛気臭い顔をされていても、こっちが困るのだ。
生きる辛さや苦しさは、感情の中でも特にプライベート・私的なことで、だからこそ理解されるのが難しいと思っている。
どこで聞いたかすっかり忘れてしまったが、「人には人の地獄がある」という言葉のように、つまりはそういうことだ。
しかも、冒頭で述べたように、人類が今だに解明へと勤しむ、答えなき難題でもあるのだ。そりゃ簡単に、20そこらの年齢で、しかもキャンバス上で表現できてたら、それ鑑賞した人類みんな悟り開いとるさ〜。
みんな、生きるのが辛いと思う瞬間がある。
今この瞬間、幸せそうに見えるあの人も、不幸がやってくるかもしれないし、本人でさえそれは分からない。
「芸術家のような表現者は、感受性が高いから、世の中の病み(闇)を一手に引き受けている」的なことをよく聞くのだが、胸がモヤモヤするというか、違和感すごい。「だから俺たちは特別な事をしているんだゼィ」って聞こえる(ごめんなさいね)。
絵のハウツーが溢れかえっている今の世では、絵を描くことができても(もちろんできなくても)別に何ら特別なことではない。
「絵が描けるから特別な存在」じゃなくて、本当はみんな「特別な存在」のはずなのだ。みんな誰かになることはできないし、自分は自分にしかなれないのだから。
し、みんな大変な思いをしながら生きている中で、「私、こんなに辛いんです」という感情と、絵を描く技術だけが一人歩きしたような作品を見せられたところで、何も生まれないと思う。
(でも、もしかしたら、「あ、こんな風に私よりツライ目に遭っている人がいるんだ」と比較し、自分の辛さって大したことないんだ、と思う人もいるかもしれない。しかし、自分の感情を無視したり押さえつけるのは、自分を見失うからやめたがいい。感情に向き合い・受け入れ・認めることは、自分を認めてあげたり許してあげたりすることと同じだ。あと、その絵はそういう事を伝えたかった訳じゃないと思うし、ただ「苦しいよー」って言いたかっただけだと思うし)
思うに、人は「それを超えたもの、その先」を求めている・知りたがっている。
「その先」とは、「救い」とか「解決」とか、はたまた「新たな疑問の提示」とか。
一見、作者や世の苦しみが表現された絵の中に、何か、一筋の希望が見える、とか、そういう系。
それが見えたり、感じとれた時、人は本当に感動するのではないだろうか。
それが私の思う「つくる」楽しさでもある。「それを超えたもの、その先」を創ること。
一度、そういう絵に出会ったことがある。
約15年前、テレビでその絵を見た。まだ直接対面して見たことはない。
小さい時に見たので、名前も覚えていないし、画面全体が「人」という字で埋め尽くされ、黄色い画面だったことしか覚えていないが、今も印象に残っている。
作者の葛藤や絶望の中に見える希望のようなモノが、画面上から滲み出ていて、テレビという媒体の障壁があるにもかかわらず、それが伝わってきた。
(テレビ側の編集で感動的な見せ方をしただけかもしれないが、純粋に感動した幼き私を悲しませたくないので、それは一旦おいておこうか…)
思えば、絵描きってすっげー!と初めて思ったのは、この絵だった気がする。
苦しさを、噛み砕いて噛み砕いて、葛藤を重ねた人が表現したものは、絵でも、他の媒体でも、素晴らしい世への出し方をすると思う。
noteだったら文章だよね。
過去の辛い出来事や衝撃的な出来事、やらかした若かりし頃の出来事も、一見派手だから一瞬間は惹きつけられるかもしれない。
さらに、「それを超えたその先」を、作者が作者の中で噛み砕いて、煮詰めて見つけ出した一つの「解」がある文章だった場合、読んだあとスッキリするし、自分も一緒に救われた感じがする。時には新たな疑問が生まれたり。
最後に。
これからも絵を描き続けるだろう、過去・現在・未来の私に言いたいのは、
「繊細で多感な私」に酔いしれたり、打ちひしがれたりするな。
「自分の感受性ぐらい 自分で守れ ばかものよ(茨木のり子)」ばい。
小さい頃に見た「黄色くて「人」の字がたくさんある絵」のような、そういう作品を生きている間に1つでも作れたら、万々歳だな〜ていう。私の人生の目標の一つと、私の思う「つくる」を語らせていただきました。