(2025/04/01)「孤独」についてさらに深掘り、OpenAIの対話型AIであるChatGPTとのやりとりを通じ、筆者自身が納得した一つの解を追記。
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今年、同級生が命を絶ったと聞いた。実際に話したことなんて、ほんの少しだったけど、君がこの世界に不在になってから、ずっと休まらない日々を送っていた。
同じ時期に、私は「死にたい」とかなり明確に思っていた。その感情の構造は、どこから来たものだったのだろうかと今考える。それは、「命を断ちたい」という希求ではなく、「このままのかたちでは生きられない」という深い絶望だったように思う。
この感情には、いくつかの層が存在している。時にはそれは、現在の状況から解放されたいという逃避欲求として。また時には、自分という存在の輪郭が曖昧になり、「私」としての実感を失った結果の透明化願望として現れる。
特に私が強く共鳴してしまうのは、「私が私である感覚の希薄化」だ。
どこまでが自分で、どこからが他者か。これは「共感力が高い」というだけではなく、「私が何を感じているのか分からない」という虚無感でもある。自他の境界が曖昧になり、自分の感情が果たして自分のものなのか、他者のものかすら、分からない。
世界からフェードアウトしたい・逃げ出したい、自分という存在を一時停止したい … 明確な自己を持てずに生き続けることは辛い。明確な自己を持てずに生き続けるということは、「いまここにいる私」から広がる過去も未来も描けなくなるということだ。
この苦しみはずっと変わらないかもしれないという、改善への想像力が尽きた時。「私」が完全に溶けてしまう時。世界との関係が完全に断ち切れ、「ここで生きても、誰にも届かない」と感じた時。
これは、「孤独」とは少し異なるように思う。孤独とは「誰かとつながりたいのに、つながれない」という感情だと理解している。「誰にも分かってもらえない」…こういった言葉が出てくるのは、まだ「他者」が前提として存在しており、希望と悲しさと痛みが残っている状態である。
しかし、「この世界に自分の居場所がない」という感覚は、そもそも世界に「私」が存在しているという前提そのものが崩れている。「誰かとつながりたい」ではなく、「そもそも私は生きている価値があるのか」と問う。「感情がある自分」すら消えかけていて、無感覚・無価値・無意味といった“虚無”が支配する世界だ。
このような感覚が、「死にたい」という言葉として表出するのだと、私は理解している。怠惰でも逃げでもなく、むしろ、世界と向き合いすぎた結果、限界に達してしまったのだ。
一生懸命、生きていただけなのに。
こうした名づけようのない複雑な感情の層を、ただ「孤独」や「苦しみ」などといった表現ではくくれないように思う。
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君の人生を、意味づけするなんておこがましいと思う。ちょっとだったとしても、君を私の思考のネタ・素材として、概念にして扱ったところは、申し訳なかった。君だけの苦しみなのに。
君が居たことは誰にも奪えない事実で、きっと今も風景のどこかに沈んでいる。私はそれをよく覚えている。