「アクリル絵の具」はまだ歴史の浅い絵の具であるが、プロからアマチュア、初心者までと多くの人に使われている絵の具。
「アクリル樹脂」の開発
[アクリルの絵の具]は、近代化による石油化学の発達によって誕生しました。絵画史の中では比較的新しい絵の具です。
[アクリルの絵の具]の原料の一つである「アクリル樹脂」は、ドイツのオットー・ローム(Otto Karl Julius Röhm, 1876年-1939年)によって1901年に開発されました。そしてオットーの技術は、1930年頃にはアメリカの商業生産ラインに持ち込まれます。
[アクリルの絵の具]は、色を帯びた「顔料」と、それをくっつける「バインダー(=糊、接着剤、展色剤)」としてアクリル樹脂を使用しています。
初期のアクリル絵の具
[初期のアクリル絵の具]は、工業用として開発され、芸術家や画家が使うような専門家用絵の具としてはコストが高く、商業用までには至っていませんでした。
しかし、ある絵画運動をきっかけに、絵を描くのに適した[アクリルの絵の具]の開発が進められることになります。
メキシコ壁画運動
[アクリルの絵の具]の開発がすすめられた大きなきっかけは、メキシコ合衆国で勃発した「メキシコ革命」に始まります。
【背景】
メキシコの軍人・政治家ポルフィリオ・ディアス(José de la Cruz Porfirio Díaz Mori, 1830-1915)は、1876年にメキシコ大統領に着任後、34年という長きに渡り独裁的な政治を行います。
ディアス政権では、大規模な外資の投入、鉄道、港湾、通信網などのインフラ整備・銀行設立・商業の活発化・工業や農牧業の拡大を行い、メキシコの経済発展を進めることに成功しました。
その一方で、海外の投資家や裕福な白人階級、一部のエリート層のみに富が集中する悪質な社会構造を生み出し、一般国民(インディオ<先住民>・メスティーソ<インディオと白人の混血>など)のほとんどは貧困にあえぎ苦しんでいました。
そこからディアス政権への反発の動きが強まります。
そのメキシコ革命より少し前の1910年頃、文字が読めない一般庶民に「メキシコ人としてのルーツやアイデンティティ、革命の意義」を、壁画を通して伝えようという動きが起こりました。
これは、「Mexican muralista art movement(メキシコ壁画運動, 1920-1930)」という絵画運動としてよく知られています。
しかし、この計画は革命と戦争の勃発で一旦中断。
そして戦争終結後の1920年、壁画運動が再開され、若い芸術家たちに公共建築物の壁が提供されました。
【メキシコ壁画運動の主な芸術家】
[ディエゴ・リベラ]
Diego Rivera, 1886-1957
フリーダ・カーロ(Frida Kahlo, 1907-1954)の夫
[ダビット・アルファロ・シケイロス]
David Alfaro Siqueiros, 1896-1974
[ホセ・クレメンテ・オロスコ]
José Clemente Orozco, 1883-1949
屋外、そして「壁」という大画面での制作だったので、芸術家たちは手軽に扱えてかつ風化しにくい堅牢な絵の具の開発を求めます。これが、[アクリルの絵の具]の開発がすすめられた大きなきっかけになりました。
世界初・商業用のアクリル絵の具の誕生
第二次世界大戦後の1947年、世界で最初の商業用のアクリル絵の具「Magna Plastic Artist Paint(Magna)」が、アメリカ合衆国の「Bocour Artists Oil Colors Company(ボクー社、ボクール社)」によって販売されます。
「Magna」は、「ボクー社」を創設したサム・ゴールデン(Sam Golden, 1915-1997)と、彼の叔父であるレオナルド・ボクー(Leonard Bocour, 1910-1993)によって開発されました。
【Bocour Artists Oil Colors Company】
1936年設立(現在は廃業)。
サム・ゴールデンは引退後、息子と共に「Golden Artist Colors Ink.(ゴールデン社)」を設立します(1980年)。新しく立ち上げたゴールデン社では、「Magna」の技術を絵画修復用絵の具「MSA(Mineral Spirit Acrylic Colors)」へと引き継ぎました。
日本では、1997年から大阪の「ターナー色彩株式会社」と連携して、「ゴールデンアクリリックス」などの絵の具の販売を行っています。
「Magna」は溶剤系のアクリル絵の具で、その原料は顔料と溶剤(=シンナーなど)を溶解したアクリル樹脂の「バインダー(=糊、接着剤、展色剤)」です。
「溶剤系アクリル絵の具」は、テレピン油で絵の具を溶解した形で販売されており、油絵の具と混ぜることもできました。しかし、溶剤を使用するので安全性や利便性について課題もありました。
【Magnaを使用した主な芸術家】
[モーリス・ルイス・バーンスタイン]
(Morris Louis Bernstein, 1912-1962)
「Magna」を使用した最初の芸術家
[ロイ・リキテンシュタイン]
(Roy Lichtenstein, 1923-1997)
[ケン・ノーランド]
(Kenneth Noland, 1924-2010)
水性エマルションタイプのアクリル絵の具の誕生
1955年、アメリカ合衆国の「Permanent Pigments(パーマネントピグメント社)」のヘンリー・レビンソン(Henry Levison)が、「水性エマルションタイプ」のアクリル絵の具の開発に成功しました。
【Permanent Pigments】
科学者であり創業者であるヘンリー・レビソンにより設立(1933年)。の油絵の具を生産していた。現在「Colart(コルアート)」の傘下。
この絵の具は、「liquid」と「texture」を掛け合わせて、「Liquitex(リキテックス)」と名付けられます。日本では、1968年に「Liquitex」の販売が始まりました。
この絵の具は水に溶かして簡単に使うことができ、乾燥後は耐水性・耐候性に優れた丈夫な画面になります。画期的な発明品によって、芸術界に大きな絵の具の革命が起きました。
次いで1961年には、サム・ゴールデンは念願の水性アクリル絵の具「Aquatec(アクアテック)」の開発に成功します。
水性エマルションタイプのアクリル絵の具は、1960年代の芸術家たちや、芸術運動「ポップアート」にも大きな影響を与えることになりました。
その後もアクリル絵の具の開発は進みます。現在では芸術家やアーティスト、画家のような絵画表現者・ファインアートだけでなく、コミックやイラスト、デザインの面でも愛用する人は多いです。