長崎|隠れキリシタンの聖画「お掛け絵」とは

INTEREST
お掛け絵《受胎告知》生月島舘浦
出典:中園成生『かくれキリシタンの起源 信仰と信徒の実相』弦書房(2018)より

2018年7月、地元佐賀のお隣である長崎では、「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」が日本の新たな世界文化遺産として登録された。

前々から興味があったが、今回の朗報でますます隠れキリシタンへの興味が高まった。

特に、「隠れキリシタン(=色んな学者さんが色んな呼び方をしているけど、ここでは「隠れキリシタン」で統一)」の「お掛け絵」は、見ていてとても面白い。「お掛け絵」とは、隠れキリシタンの人々にとっての聖画であり、信仰の道具であり、そして拝む対象でもある。

お掛け絵 《受胎告知》 生月島舘浦

出典:中園成生『かくれキリシタンの起源 信仰と信者の実相』弦書房(2018)

多分、美術教育を受けたことがない人が見よう見まねで描いたのだと思う。かなり独特の線を突っ走っているように見える。私はすごく惹かれるものがあるが、みなさんはどう思われます?


聖画が日本へやってきた

まず、「聖画」とは、キリスト教の聖書における出来事や伝説、人物などを題材とした絵画のことだ。これらの多くは、文字が読めない民衆のために描かれた。聖画はまた、古いカトリックの大聖堂の壁や天井などでも見ることができる。

日本にキリスト教が伝播したのは16世紀頃。キリスト教がイエズス会によってもたらされたことは歴史の教科書を思い出せば「あァ、そういえばそうだったナ」と、わかると思う。そして、キリスト教と共に油絵、つまり聖画もまた伝播したワケである。

ところで、一般的に日本における油絵の開拓者は、明治時代に活躍した高橋由一(たかはしゆいち1828-1894)だと言われている。

高橋由一《花魁》1872|重要文化財
oil on canvas|770 x 548 mm|東京藝術大学蔵
出典:WIKIMEDIA COMMONS

しかし、キリスト教の伝来を考えると、油絵は明治時代に伝えられたわけではなく、16世紀の時点で既に日本に油絵が存在していたことが分かる。

キリスト教が伝播して間もなくして、天正遣欧少年使節が帰国(天正18年/1590年)した。彼らは日本へ帰国する際に、ヨーロッパから数多くの聖画と、そして「印刷機」を持ち帰った。これにより、日本における聖画制作の基盤が整った。

ドイツ Augsburg で印刷された天正遣欧使節の肖像画(1586年)
右上・伊東 / 右下・千々石 / 左上・中浦 / 左下・原 / 中央・メスキータ神父
タイトルには「日本島からのニュース」と書かれている。

出典:京都大学図書館蔵


キリスト教がまだ幕府の脅威でなかった頃、イエズス会の宣教師たちは、聖画(主に油絵と銅版画)を制作する技術を、画才のある信者たちに伝授しようとしていた。

ある宣教師がローマに送った手紙には、「生徒の中に、絵画と銅版画の技術にとても優れた者がいる!」との記述がある。宣教師の彼らも驚くほどの上達ぶりだったようだ。
参考:(1594 年報)フーベル ト・チースリク「レオナルド木村」『キリシタン研究』第二十五輯 吉川弘文館(1985)、中園成生『隠れキリ シタンの起源』弦書房(2018)278頁

しかしその後、幕府によるキリシタン弾圧と鎖国の影響で、聖画制作のための油絵や銅版画の技術を持った正統な後継者は育つことなく、途絶えてしまった。

その後、聖画はどうなったか。


「お掛け絵」とは

「お掛け絵」とは、鎖国前にイエズス会の宣教師が布教のために持ち込んだ聖画が、信者たちの手によって描き直されたものだ。

冒頭で、お掛け絵は聖画としてだけでなく、信仰の対象として拝んでいたと述べたが、幕府によるキリシタン弾圧が始まる前からも、信者たちは聖画を信仰の対象として欲しがっていた。

遠藤周作『沈黙』でも似たようなシーンがあった覚えがある。確か、宣教師が持っていたロザリオを
信者たちが欲しがっており、実際にそれを手渡すと、お守りのように大事にして有難がっていた。

もちろん、偶像崇拝をよしとしないキリスト教からすると、信者たちのその行為はタブーなワケで。

何度も説明を試みたようだが、結局は布教をスムーズに進めるために目をつぶって、その土地の土着的な考え方や習慣に対して臨機応変にキリスト教の教えを合わせていたようである。
参考:中園成生『隠れキリシタンの起源』弦書房(2018)276 頁

とはいえ、中世ヨーロッパでも「聖画」や「像」の存在それ自体が信仰の対象になっているケースもある。例えば、「マリア崇敬(聖母崇敬とも)」とか。

当時、識字率が低いという背景もあったことから、キリストや聖母マリアの偉業、聖人聖女の殉教などのストーリーを描いた聖画が盛んに制作されていた。そして、人々はいつしか聖画に描かれたキリスト以外の人物や、聖画、像の存在それ自体を拝むようになったのだ。

一見すると、キリスト教の本場?でも同じようなことが起きているように思える。


「お洗濯」という儀式

キリシタン弾圧から逃れることができた聖画も、時が経過するにつれて劣化し、描き直しへと至ったのだろう。ある時から、この「描き直し」の行為が儀式化され、これを「お洗濯」と言った。ちなみに、更新された古いお掛け絵の方は「隠居」と言う。

お洗濯を行った信者たちは、西洋絵画技術や西洋的なモノの見方(遠近法とか)がなかったと思われる。そのため、元の絵とだいぶ違う状態になるのは、避けられなかったことなのかもしれない。

また、お掛け絵に描かれた人物は、まげを結った頭に着物というように、日本人の容姿で描かれている。


お掛け絵 《洗礼者ヨハネ》 生月島壱部 岳の下津元

出典:中園成生『かくれキリシタンの起源 信仰と信者の実相』弦書房(2018)

西洋人をほとんど見ることがなかった当時の日本人からすると、周りにいる見慣れた日本人の姿をモデルとして描くことは、自然な発想である。

ところで、若松大浦教会には、ふっくらとした和風の顔立ちの聖母マリア像がある。信徒の一人が制作したらしく、当時結婚したばかりだった作者は、妻をモデルにしてこの像を制作したのだとか。

photo by みもり(2018年撮影)
若松大浦教会の内部は撮影禁止(2018年現在)。
写真はガイドの方がツアーで使用する資料で、撮影許可をいただいて撮影したもの。

世界の情報を知ることが難しかった時代である。自分たちの民族の女性を「理想の女性像」として想像するのは(それしか知らないからか)、自然な流れのように思える。


似たようなことが、またもやヨーロッパのキリスト教絵画でも見られる。

例えば、イタリアのシスティーナ礼拝堂にある ミケランジェロ(Michelangelo di Lodovico Buonarroti Simoni, 1475-1564)の《最後の審判》の右下には、「カロン」が描かれている。

Michelangelo《The Last Judgment》1536 until 1541
fresco|1,370 x 1,220 cm|Sistine Chapel
出典:WIKIMEDIA COMMONS

カロンとは、ギリシャ神話に登場する冥界の川テュクス(あるいはその支流アケローン川)の渡守のこと。カトリックからすると、異教である「ギリシャ神話」の登場人物(人なのか分からないけど)だ。

ミケランジェロが生きた時代、ギリシャ神話のような異教や世俗的な信仰がカトリックと並列したり混ざったりして存在していたのだろう。

「人は見たこのあるものしか描けない」と聞いたことがあるが、それはきっと、的を得ていると思う。


画材はどこから?

絵を描く者として気になるのが、画材の仕入れ先。

以前、長崎県平戸(ひらど)市の生月(いきつき)町にある博物館「島の館」学芸員の中園成生(1963-)さんに、「画材はどこで手に入れたのだろうか?」というような質問をしたところ、「平戸から調達してきたのではないだろうか」と答えていた。

photo by みもり|島の館 外観(2018年撮影)
鯨のオブジェが印象的・・・

平戸は、佐賀の田舎に住む私からしても(失礼だが)、最果ての地と呼べるような場所にある。しかしながら、古くは博多(福岡)や唐津(佐賀)から中国大陸へと渡るための中継地点であり、また海運の中心地でもあった場所だ。このように、交易が盛んだったと考えられる平戸で、画材を手に入れた可能性は確かに高いと思う。

ただ、農民や漁民である信者たちに、高価な「和紙」や「顔料」などを買う経済的な余裕があったかどうかは疑問である。

身の回りから調達できそうなものは自分たちで用意したのかもしれない。茶系の色は周囲の土から作り出せそうで、メディウム(媒体)となる膠はとってきた動物からとかだろうか。費用は信者同士で出し合ったのかもしれない。


歴史の表舞台にはあまり出てこないもので、しかし確かに存在していたものに、私は昔から惹かれるものがある。

たまに、このお掛け絵のような美術教育の洗礼を受けていない人が描く絵に、ハッとさせられることがある。普段は農業や漁業などの仕事をする人々が、急に絵筆を持ち、紙に向かって絵を描く。その違和感や緊張感、大胆さ、そして描くことの楽しさや高揚感なんかが感じられるのだ。

〈参考〉
中園成生『かくれキリシタンの起源 信仰と信者の実相』弦書房(2018)