誕生日は本当に誕生日?

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幼稚園から大学生までを通して、先生らが話した内容をはっきりと覚えている人は、きっと少ないと思う。

私も数えるくらいしか覚えてなくて(先生ごめん)、でも数えられるくらいにはよく覚えている方だとも思います。忘れないうちに、その中でも覚えている印象的な話について記録しときたいと思います。が、実は今から書くことは先生が話したものではありません。あらら。

中学生の時、もう10年も前のことだけど、お坊さんが話してくれたお話で、今もよく覚えている話があります。

なぜお坊さんが中学校で話をしていたのかというと、確か、何か道徳の授業で学外講師として招かれたのだと思います。

その人は、お盆やお彼岸に家に来てくれる地元のお坊さんとは、ちょっと違う雰囲気をまとっている人でした。また、お坊さんがよく話すような説法とは違って、世俗的というか。話がすごく面白くて、聞き入ってしまう。そんな魅力がありました。

私たち中学生の心を掴んだあと、お坊さんは中学生の私たちにある質問を問います。

「君たちさ、自分の誕生日いつか知ってる?」

え、いや分かるっしょ、みたいな感じで周りはザワザワ。

その様子をみて、お坊さんも「そうだよね、知ってるよね〜」と相槌を打って、話をこう切り出しました。

「たぶん、君達の親御さんが誕生日を教えてくれたんだよね。でもさ、その教えてくれた「誕生日」って、本当に「本当の誕生日」?」

そう言われると、教室の空気が一瞬で変わりました。
お坊さんは話を続けます。

「誕生日ってどうやって知ったの?
自分の生まれた日のことを覚えている人っている?
誰かが教えてくれただけで、ほとんどの人は自分で確かめたことはないんじゃないかな?
極端な話、もしかしたら親御さんがウソの誕生日を教えてるかもしれない。まだ小さかった頃に教え込まれちゃったから、信じこまされているだけかもしれない」

私にとって「自分の誕生日」というのは、当たり前の世界線上にあって、今まで疑ったことなど、さらさらない。そんな、疑いの余地さえないものだから、「自分の誕生日が本当に自分の誕生日か疑う」のは、目からウロコの経験だった。

今となっては、昔は出生届けに関して親も役場もルーズなところがあって、昔の人は実際の誕生日と届け出た誕生日が違う人がいるっていうことも知ってるし、あとから知った話、自分の叔母も「3月生まれは体格差があって大変だろう」ということで、届け上では4月生まれになっているという話も聞いた。

だから、今の私がその話を聞くとあまり驚かないかもしれないけど。

ただ、お坊さんが伝えたかったことっていうのは、誕生日を疑えとか、誕生日の雑学のことじゃなくて、

「”当たり前” は本当に “当たり前” なのか」

ということである。

そして、当時の私はその考え方にめちゃくちゃビックリしたのでした。

「当たり前って本当に当たり前なのかな?って考えられる人って、歳をとるごとに減っていくし、気づけなくなっちゃうんだよね。だから、13歳の今の君たちが感じたこと・思ったことには正直な感想を持っていいし、違和感を覚えることがあったら、それはなぜなのか突き詰めるといいよ」

10年経った今の私は、それができているだろうか?
そんなことを思った日でした。