寡黙な故郷

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2020年1月14日。
卒論と卒業制作を提出する日です。

長くて短い大学生活だったなぁと、感慨にふけっています(まだ卒業しとらんよ、みもりさん)。



大学進学をきっかけに、18年間過ごした故郷・九州の佐賀を飛び出し、4年の月日が流れようとしています。2020年1月現在、私は関東のある大学の芸術学部油絵専攻の4年。

怒涛の日々が過ぎていく中、約1年かけて描いてきた卒業制作も、徐々に深みを増してきたように思います。卒業制作は、今後も絵を描き続けようと思っている私にとっては通過点に過ぎないのだけれど、4年間の集大成…なんて考えちゃうと、変に肩に力が入っちゃいます。

完成した作品を見ていると、なんだかやっぱり、色々と画面の中に詰め込みすぎたなァ、と反省。毎回、やめどころがわからなくなって、やりすぎちゃうことが多いのです。成長しているのか、していないのか…。



2017年ごろから「土地の記憶」「故郷」「風土」という言葉がなんとなく自分の中でテーマとなってきていて、今回の卒業制作も同じようなテーマで描いています。

こっち(大学)に来てからになるのだけど、私は絵を通していつも「故郷」に思いを馳せていたように思います。記憶のなかにある景色に浸るのが、なんだか落ち着くといいますか…。

時折、過去を引きずっているように思えて不快な気持ちになる時もありますが、それでも、しっかりと根付いた自分のルーツを確認できるという安心感もあるのです。

故郷の景色は、私の「原風景」になったのかもしれません。



ありがたいことに、優しい家族のもとに生まれて、不自由なく、そして良くも悪くも閉鎖的な田舎で育ちました。

閉鎖的な田舎。
幼い頃に見ていた故郷の姿を思い浮かべると、まだ「土着的なモノ」がそこにいる感じがありました。

佐賀の風景や伝統行事、方言などの片隅に「土着的なモノ」がいて、その土地独特の濃い香りは、幼い私の興味・好奇心をくすぐるものでした。そういうものに対して、他の子と比べると異常な関心を示していたように思います、自分でも自覚できるくらいに(笑)

でも、時が進むにつれて周りで土地開発が進みます。土地は、無味無臭のどこにでもあるような、均一化された風景として洗浄されていきました。

なんだか、ぽっかりと自分に穴があいたような気持ちになりました。

そのようなわけで、その「喪失された部分」を埋める作業を始めました。文章や動画など、たくさんの表現するための方法がありますが、それがとりわけ私の場合、絵でした。

「土着」という言葉が持つ意味のように、土を掴んで、土に根付いて生まれてきたモノの持つ独特の生命力と魅力。それを知りたい、思い出したい、失くしたくない、という衝動的な感情から絵を描いているのかなァ、と最近思います。

それを絵の中で表現していくと、ある時点からその絵の「世界観」となって現れてきてくれます。その世界観は私にとっての「理想の故郷」と重なろうとする…のですが、友人は「それは「遠い過去の幻影」を追っているにすぎず、永遠にたどり着くことはできないものだよね」と言いました。

ならばどうして、私はそれに固執するのでしょうか。
「自分」という存在に確固たる自信がないから?自分を説明するもの・自分を支える何か・アイデンティティ…そういうものを欲しているのかもしれません。ここに私(人間)の弱さがあるような気がします。

でも、その「幻影」を見ることができたなら、「絵を描くこと」の意味を知ることになるのではないか、とも思います。その瞬間、私は満足して絵を描くことをやめるのかもしれませんね。



さて。

冒頭で言ったように、私は今年の春、大学を卒業します。
その後の進路は、細かいことは特に決めていません。とにかく今はお金がないので、仕事を見つけてお金を稼ぐ。そして東京に行きたい。と、風の吹くままでなんとも親不孝な娘。申し訳なさは一応あります。

きっとこれから大変なんでしょうけれども。
でも、記憶の中の寡黙な故郷が、静かに、多くを語らずとも応援してくれている気がするので、物事は前向きに考えていこうと思います。