修学旅行に行かなかった

人生最後になるはずだった高校2年の修学旅行に、私は行かなかった。

最初に断っておくが、私は不登校でもなんでもない、ちゃんと学校に行けている系の高校生だった。たまに学校をサボることもあったが、皆勤賞並みに学校に通い、友達関係も、先生との関係も、全然悪くなかった。それに、修学旅行のための積立金もちゃんと親が用意してくれていたのだ。修学旅行の準備は万端だったが、人生最後の修学旅行に私が行くことはなかった。

◇◇◇

私の通っていた高校は、2年生の時に修学旅行がある。国内旅行で、行き先は確か北海道。毎年1月に行われており、スキーがメインみたいだった。

高校2年の1月といえば、3か月後には高校3年に進級、いよいよ受験!その前にある最後の楽しみ、それが修学旅行だ。生徒達は、これが終わるといよいよ受験だから、最後の行事を寂しく思うと同時に、もちろん楽しみにもしていたし、はっちゃける気満々だった。

私もある時期まではその一人だったが、高校2年の夏に愛猫の“あめちゃん”が、そして秋に父がガンで他界してしまったもんだから、それどころじゃァなかったのだ。

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今まで調子が良さそうに見えた父の容態が急変し、夏休み頃から重々しい空気が家の中でドロドロと漂う。父が亡くなったその後も、換気できていないのか知らないけれど、“それ”がずっと漂っていて、息が詰まりそうだった。

田舎の高校生というものは、お金もないし時間を潰す居場所もない。家に居たくない時は、学校で適当に時間をもてあそび、土日は適当に公園かどっかに外出して、ぼんやりとする。

夜はというと、友達の家に泊まる気分でもなく、かと言って尾崎豊の『15の夜』みたいに家出したり夜遊びしたりする勇気も気力もないので、やっぱり家に帰るしかない。

しかし、家に帰れば「父がいない」という現実をまざまざと見せつけられる。仏壇の前に座った途端に涙がじわじわと溢れ、そして落ちたのだった。

だが、世界は残酷に「日常」に戻ることを突きつけてくる。

もちろん、頑張って「日常」に戻ろうと努力はするのだが、そんな「からげんき」は自分の本心とちぐはぐ状態だ。

そういう時、人というのは情緒不安定になる。しかし、17歳とは難しい年頃で、子供でもなければ大人でもない。社会という荒波にもまれたこともないくせに、変に強がって「私はもう大人なんだ」と思い込んでしまうと、いざ、自分の感情を全くコントロールできていないと知ったならば、まだまだ幼い心はアっという間に崩れるのが目に見える。

ここで、この記事の題名に繋がるワケである。

こんな心境じゃァ、修学旅行行っても絶対楽しくないし金の無駄だと、思いたったのだ。親も交えての二者面談の時、先生に修学旅行に行かない理由や心境をそのまま伝えるのはなんだか恥ずかしくて、「お金がない」の一点張りで通した(積立金がちゃんとあるのに、何とも説得力のない理由である)。今思えば、素直に「行きたくない」って言えばよかったんじゃないかとも思う。

先生の手が、震えているのが見えた。怒っていたのだろうか。「先生」としての役割を果たせなくて、悔しかったのだろうか。

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さて、修学旅行に行かないことになったのだが、先生曰く、修学旅行も授業の一環とのこと。だから、修学旅行に行かない生徒は、学校に登校することが原則で「学校では自習をして過ごすように」とのことだった。

私の他に、修学旅行に行かない人は2人いた。どちらも不登校者で、修学旅行中も結局彼らは来なかった。私一人が、2年生の教室に残った。

穏やかでホッとした。今思い返しても、あれは素敵な時間だったなァと思うくらいだ。今まで張りつめていたものが緩んで、その瞬間やっと心が休んだような気がしたからだ。人生の休息とは、このことを言うのではないだろうか、なんて考えちゃったりする。

0限目(田舎あるある、朝の補習授業)も、修学旅行中はないから、いつもより少し遅く起きて、いつもの始発の電車じゃなくて、次の電車でのんびり行くことにした。駅についても、別に急がなくていいから、高校まで自転車じゃなくて歩いて行ってみることにした。

学校に着くと、1年生と3年生が朝補修をしているのが見え、それを横目にしコッソリと2年生の教室へ向かった。数学の先生が律儀に朝礼に来て、出席をとって教室をあとにした後は、自由である。

教室の後ろに置いてある本を読んだり、絵を描いたりした。夜遅くまでやっていた部活も行かず、早めの電車で家に帰って家の周りを散歩しながら帰った。

とはいえ、修学旅行に行ったら行ったで楽しんでいたと思う。しかし、神経をピンと張りつめたまま楽しむことになっていたのではないかとも思う。

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この時間は、水泳のクロールの「息継ぎ」のようだ。

父が亡くなったという「非日常」から「日常」に戻れたのはきっと身体だけで、心の方はまだ戻れていないのだろう。クロールのように「息継ぎ」が必要だったのに、無理矢理に泳ぎ続けて「日常」に戻そうとしていたから、息苦しさを感じていた。

また、「修学旅行に行かない」というレッテルを自分に貼ることで、みんなから「かわいそう」と思われたかった。私は悲劇のヒロインになりたかったのだ。

だって、私の人生で「父が死んだ」という壮絶なストーリーが展開しているのに、太陽は東からのぼるし、朝は来るし、電車も動いているし、学校もあるし、周りの人にとってはただの「日常」だなんて、そりゃァ、我慢ならない!

相変わらずに、「日常」というものが堂々と横たわっているのが癪に障る。だから、「修学旅行に行かない」選択をすることで、どうにかこうにか気を引こうとしたのだ。「可哀想な私を見て!」なんて、小さくて幼稚な感情だ。

結果的には、気持ちが多少楽になったから、この選択は自分でもイイものだと思っている。でもね、修学旅行なんて絶対行った方がイイに決まっている。修学旅行は、学校と家を行き来するだけの日常に、非日常という色を与えてくれるものだ。

(でもさ、みんなが修学旅行に行っているド平日に、誰もいない教室で好きに過ごす…、これもなかなか貴重な体験だと思わん?笑)

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