小学生の頃。最初、はぶられるのが怖くて、クラスのカースト上位から中位の人との付き合いを必死に維持していた。一人でいる事がいじめの標的になるのだと信じこんでいたのだ。でもそのうち「自分」がどっかに行ってしまった。私、前はもっと声も大きかったし、手も上げて発言していたし、周りにどう思われているか全然気にしていなかったのになあ。いつからこうなったんだろう?
とか思っていたら突然、何もかもがめんどくさくなって、クラスのカースト争奪戦の土俵を下りた。下りたら、必死で維持しようとしていたカーストの位置は、あっという間に下位になった。というか、最初から下位だったのかも。それ、ずっと認めたくなかったのだろう。でも、下位は下位でも、違う場所に立っている気分になった。みんなから一歩引いて、目の前で巻き起こる人間関係をドラマのように見る毎日。
「あ、なんかもう、ここでいいや。」となった思考停止の小学校後半。
正直、そこはすごく生きやすかった。何も考えなくてよかった。自分をさらけ出しすぎても、勝負の土俵に最初から立ってないから気にならない。ちょっとだけわがままになれる。無になれば、思考停止しとけば、透明人間になっとけば、どう思われているかなんて気にならなかった。
確かに、それは生きやすかったけど、「生きてる」というより何かに操られて「生かされている」という感じだった。実際、しっかりと地を踏んで歩いていないような、なんかふわふわした感覚。生きた屍ってこういうかんじかな〜とか思ったり。とりあえず、自分から生きているっていう能動的な感じがしなかった。
そしたら、無になりすぎて、一人でいることが多くなって、その反動なのか、或る日突然、ものすごく人恋しくなった。自分から一人になりに行ったのに、「一人」でいることの恐怖に気づいてしまった。
だから、なんとなく、波長が合いそうな人とつるむようになって、なんて私は卑怯なんだろうとか思った。「つるんであげている」とか思っちゃって、めっちゃ卑怯だなと思った。そんな罪悪感を感じながら、中学生になった。人並みに笑って泣いて楽しい思い出を作ってみたが、なんか、ハリボテのようなものに思えた。
高校生になって、地元を遠く離れた市内の学校に通うようになった。私の過去を知らないところに行きたかった、というのが一番の志望動機。幸い、自分の過去を知っている人は片手で収まる程しかいなかった。
私は、あの土俵に戻ろうと思った。いわゆる「高校デビュー」をしようと思った。そして、今までの私だったら絶対話さない人と話してみた。
しばらくして、よく一緒にいる子同士が集まってグループができた。そしたら人間関係のゴタゴタに巻き込まれた。めんどくさいことも多かった。そのたびに、私はこれからどんな行動すればいいのだろうかと、すごく考えさせられる羽目になった。
初めてのことだったから加減が分からず、誤解されたこともあった。険悪だった関係がいつの間にか良くなっていて「私が悶々と考えていた事って何だったんだ!?」と唖然としたこともあった。
私の前で泣いている友達なんて初めて見たから、どう言葉をかければいいか分からず、寄り添えない自分に腹が立ったこともあった。
「今までそういうことを怠ってきたんだなぁ」とその時やっと気づいた。
でも、一緒に帰る友達ができて毎日帰るのに退屈しなかった。クラスの中で一人でいる事があっても、不思議と疎外感がなかった。私の方から「大事にしたい」と思える友達になっていた。
よく一緒にいるグループができると、行ったことのないカラオケに行き、ファミレスに行き、プリクラを撮りに行った。
そしたら、私はカラオケがすごく好きだということが分かった。ファミレスより、静かな場所で話すのが好きだということが分かった。プリクラみたいに撮られるのは好きではなく、撮る方が好きだと分かった。
「いろんな自分がいるんだなぁ」と思った。
八方美人な自分。一人でいるのが好きだけど、ずっと一人でいるのは耐えられないのも自分。◯◯が好きな自分。◯◯が嫌いな自分。
最初から存在していた自分もいれば、うまく生きるために作られた自分もいる。耐えられない時は、たまに土俵を降りて自分の生きやすい場所にこもって、まぁでもそこでもまたきっと耐えられなくなる時があるから土俵に戻る。10代の私は、なんかそんなことを学んだのではないかなと思います。