今日も言葉は遠回り2

「うまく喋れない」…まじで毎回凝りもせず言ってる。しつこくて、すんません。年に1回くらい、どうしようもなく落ち込んでしまうのだ。今日もまた、そんな日だった。

会話って、瞬発力とか、整理された思考とか、あとちょっとした演技力みたいなものが求められる場面が多い。私にとってそれは、どうもハードルが高いようだ。頭の中では何かが渦巻いているのに、それをその場で口から取り出すとなると、たちまち言葉はボロボロになる。途中で「あれ、私何が言いたかったんだっけ?」と迷子になったり、変に焦って自分でもピンとこない言葉を並べてしまったりする。借り物の言葉は薄っぺらで、所詮それは虎の威を借る狐、私の言葉じゃないのだ。

人間よりも、寡黙に佇む故郷の景色の方が、道端に生きる雑草の方が、使い込んだモノ達の方が、私の伝えたいことをよっぽど理解してくれている気がする(悲しい錯覚…)。

でも、不思議なことに、そういう場面でも、なぜか私は「言いたい」気持ちが消えない。みんなが沈黙するところで、むしろ口を開きたくなる。別に勇気があるわけでも、伝え上手なわけでもない。むしろ逆で、上手く言えないくせに、それでも言わずにいられない、そんなやっかいな衝動が自分の中にある。これはたぶん、ある種の諦めと、ある種の開き直りが混ざった結果かもしれない。

「どうせ上手くは言えない。でも、それでも言わないよりは言いたい」

そして、毎回後悔している。「また余計なこと言ってしまった」とか、「ああ言えばよかった」とか。そんな輪廻からマジで抜け出せない。それでも、何も言わなかった自分よりは、少しだけマシな気がする。不器用なまま、うまく喋れないまま、それでも「ここに私はいる」ということを、声にしてしまいたい。

…それでまた後悔するんでしょ?自分、めんどくさすぎるよ!

◇◇◇

今の社会には、ある種の「喋れる人が強い」というルールが存在しているように思う。ここでいう「喋れる人」とは、論理的に考えを整理し、状況に応じて言葉を使い分け、聞き手にわかりやすく伝えられる人のことだ。そういう人は、評価されやすく、信頼されやすく、場の主導権を握りやすい。これ自体は、おそらく疑いようのない事実だろう。

瞬発力のある言葉。会議、電話、面接、雑談、説得…。どれもスピードとリアルタイム性が求められる。

「さっきの人のお話、すごく分かりやすかったし、テンポも速くてよかったね」「さっきの人、話があっちこっちに飛んじゃって、質問の答えになってなかったよね。しどろもどろで、何話してたか分からない」…そんな”撮れ高”の会話が聞こえると、すごく萎縮してしまう。自分のことじゃないのに、なんか代表して謝ってしまう。まじでごめんなさい。

冷静で、論理的で、誠実な言葉が吐けること。私の周りにいる人々に「はい論破☆」みたいなことをしてくる分かりやすいアホはいない。本当に立派で優しい。論破するでもなく、否定するでもなく、相手の言葉に耳を傾けて、待ってくれて、それから真摯に答えてくれる。

だから、どんなに羨むことはあっても、憎むことは絶対にできないのだ。その人達を憎むことは、世界が許してくれない。どこまで行っても、冷静で論理的で人道的で知的な思考をすること・話せることが、先進的な人間で、それが理想とされている。

要するに、喋れること・整理できること・論理的であること…そういった能力が一種の力として機能している場所で、私はしばしば立ち尽くしてしまうのだ。もちろん、これは単なる個人的な絡まった感情とも言える。

と同時に、喋りにしても文章にしても、言葉はやっぱり奇跡だと思うわけである。何世紀も前の人の文章、はたまた翻訳を通して遠い異国の地で書かれた文章、動画を通して聞く誰かの声、目の前にいる人が発してくれる言葉に、心動かされるなんてSFじみていてスゴイ。

だから、非言語的な表現にも価値があると信じてはいるけれど、評価される世界は論理や喋りの強さに偏っているように見え、そして、自分がそこにフィットしきれないことへのもどかしさと、それでも“誰かに伝えたい”という強い衝動とのあいだで立ち尽くしている自分を、どこかで許せない。…そんな状態なのかもしれない。

◇◇◇

私は、喋ることが上手くない。でも、だからといって、言葉を諦められるかというと、そうでもないようだ。

うまく話せないこと、うまく伝わらないこと。うまく言葉にできないものを抱えているのは、きっと私だけではない。たぶん静かに、それぞれの場所で生き延びている。沈黙しているからといって、何も感じていないわけではない。うまく言えないからといって、その人の内側が空っぽなわけでもない。

私は、そのことを忘れたくない。そして、そういうものたちの居場所が、ちゃんとこの世界のどこかにあってほしいと思っている。

「うまく喋れないまま喋る」ということ。「すぐに言葉にできないまま、感じ続ける」ということ。それは、効率的でも合理的でもない。だけど、そこには確かに、その人だけの風景や時間が流れている。

うまく言葉にできないこと、うまく理解できないことは、これからもきっとたくさんある。言い間違えたり、沈黙したり、うまく笑えなかったり、そんなことばかりだと思う。それでも、未完成な言葉たちと一緒に、この世界に手を伸ばしていたい。

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