『スチームボーイ』で描かれるガラスの巨大宮殿「水晶宮」とは

『スチームボーイ(STEAMBOY)』は、漫画家の大友克洋先生が監督し2004年に公開されたアニメ映画である。大友克洋先生といえば『AKIRA』も有名であるが、近未来都市・ディストピア・SFといったイメージが強い『AKIRA』と比べると、同じSFでも『スチームボーイ』は特に時代設定を徹底している印象がある。

スチームパンク的な世界観で表現された『スチームボーイ』の舞台は、世界初の万国博覧会を目前にした19世紀半ばのイギリスである。19世紀のイギリスといえば産業革命、そして蒸気機関が産業を支配し始めていた時代。物語は、発明一家であるスチム家の少年「レイ」と蒸気機関による驚異の発明品「スチームボール」を中心に展開する。

出典画像:SYEAMBOY公式サイト

作品内では、1851年に開催されたロンドン万博の会場風景やパビリオン、そして万博の目玉であるガラス張りの巨大宮殿「The Crystal Palace(クリスタルパレス, 水晶宮)」が詳細に描かれている。実は、この水晶宮は実際に存在していた建物で、1936年に火事で全焼するまで複合施設として使用されていた。

この記事では、水晶宮の歴史やロンドン万博についてまとめてみた。それを踏まえ、改めて「スチームボーイ」を見ると、この作品の時代設定の徹底ぶりに驚かされるのである。


「万博」とは

出典:万博記念公園|大阪万博|EXPO’70 開会

「万博」と聞くと、日本だと岡本太郎の作品《太陽の塔》で有名な「大阪万博(1970年)」を思い起こす人が多いのではないかと思う。そもそも万博、いわゆる「万国博覧会」とは『国際博覧会条約』という、れっきとした国際条例に基づき、BIE(博覧会国際事務局, Bureau International des Expositions)にて正式に登録・認定されたものである。

『国際博覧会条約』
第一章 定義及び目的
第一条 定義
1. 博覧会とは、名称のいかんを問わず、公衆の教育を主たる目的とする催しであって、文明の必要とするものに応ずるために人類が利用することのできる手段又は人類の活動の一若しくは二以上の部門において達成された進歩若しくはそれらの部門における将来の展望を示すものをいう。

外務省|『国際博覧会条約』抜粋

万博の歴史の始まりは、水晶宮が建設されるきっかけとなった「第一回ロンドン万国博覧会(1851年)」である。実は、ロンドン万博以前にも、特にフランスでは博覧会が盛んに開催されてはいた。しかし、これらは国内(国外参加があったとしても自国の植民地だけなどといった準国際的なもの)のみの開催にとどまり、計25カ国が参加したロンドン万博ような国際的な催し物は未だかつてなかったのだ。

ちなみに、日本が初めて国際博覧会に出展したのは、「第二回パリ万国博覧会(1867年, 慶応3年)」からである。

第一次大世界戦後、現代の万博のように「テーマ」を持った万博が始まる。1928年には国際博覧会条約が署名され、国際博覧会はこの条約を基準にして開催されるようになった。


万博の起源

紀元前のエジプトやペルシャでは国王が即位した時の祭典にて、芸術品などが民衆に披露されたり、また古代ローマでは戦いの戦利品や奴隷が民衆に誇示された、などという記録がある。これが、博覧会の原始的な形態であるとする説がある。

その後、ヨーロッパ諸国は大航海時代を経て「世界」を発見していく。そこで発見した「珍しきモノ」を種類ごとに分類したり、陳列・展示したりした。後に人々へ「公開」という形をとっていくことになり、これは博物館や動物園の始まりとも考えられる。

また、ヨーロッパでは人口増加・都市への人口集中により、商業や交通網が発達。人が集まることによって、市が開催されるようになった。市では物を売るだけでなく、見世物小屋のようなものや、技術や物産を「展示」することを目的としたものもあり、これも広い意味では博覧会の原型と言えそうだ。


ロンドン万博開催までの道のり

ロンドン万博開催に向けて、要となった二人の人物がいる。ヴィクトリア女王の夫であるアルバート・オブ・サクス=コバーグ=ゴータ公子(Prince Albert of Saxe-Coburg-Gotha, 1819-1861)と、水晶宮を設計したジョセフ・パクストン(Sir Joseph Paxton, 1803-1865)である。

Prince Albert of Saxe-Coburg-Gotha(1860)
Joseph Paxton(1850)

ちなみに、ロンドン万博を発案した人物は、当時ロンドンの公文書館の館長補佐をしていたヘンリー・コール(Sir Henry Cole, 1808-1882)という人物である。

Sir Henry Cole(1876-84)

イギリスは、フランスの「産業博覧会(パリ博覧会)」が大成功を収めたことを知り、ヘンリー・コールは調査へと向かう。その調査報告で彼は、

「イギリスがフランスを超えるには、国際的なものにしないとダメだ!」

と、芸術協会会長でもあるアルバート公に熱く語った。一旦は話が流れてしまうが、熱く語る彼の言葉はアルバート公に届いた。ロンドン万博開催のきっかけができたのは、彼の熱意あってこそである。


さて、ロンドン万博のきっかけになったとも言えるフランスの産業博覧会であるが、その目的は政治的な面が多く含まれている。「持っているモノや技術を展示する」ということは、すなわち国家の力をアピールすることでもあったのだ。

束の間の平和が訪れてはいるが、ヨーロッパは戦争だらけの歴史だった。『スチームボーイ』の劇中でも、「まずは国家が強くないと敵に侵略され、結局平和に暮らせないのだ」というようなセリフ・シーンから、19世紀の世界の様子が分かる。

そのような背景もあって、フランスの産業博覧会のような催し物は、近代国家にとって重要なものであり、ヨーロッパ各国で盛んに開催されていた。しかし、イギリス以外の国々が万国博を考えなかったのはどういうことだろうか。実は、そもそも博覧会というものは以下のような目的もあったのだ。

・他国(特にイギリス)の商品が自分の国に浸透するのを防ぐ
・国内産業の育成とアピール

この目的の背景には、産業革命以降も独走状態だったイギリスの工業力に対する各国の恐れが少なからずある。そういうこともあって、万国博を開催しても特に問題ないであろうイギリスが先陣を切ったように思われる。


水晶宮の建設

1851年のロンドン万博開催に向けて、企画に当たった王立委員会は、展示会場の建築デザイン案を募集した。海外を含め245案が集まったが、建築委員会はなんと「採用に値するものナシ!」と決定し、しかも自前のデザイン案を発表してしまう。

それは、レンガ造りの伝統色強めのデザインで、開催地である公園に一時的に建築するものにしては費用も建築期間もパツパツで、とにかく無理のあるものであった。

The Illustrated London News v.16 (1850.6.22)建築委員会の設計案で、世論の反発を受けたもの

出典:国立国会図書館|博覧会 近代技術の展示場|不採用の会場図面

案の定、世間からは非難轟々、新聞・雑誌では叩かれまくり。

開催まで期間が一年半とない、しかもこれまで一度もない大イベントを国家の名にかけて成功させなければならない、さてどうしたものか、と頭を悩ませていた時に現れたのがパクストンの案である。

パクストンは鉄とガラスでできた巨大な建物を提案した。これは、約4500トンの鉄、約30万枚のガラス、約60万立法フィートの木材を使用し、わずか6ヶ月余りという短期間で完成させたのだった。

The Illustrated London News v.17(1850.12.14)リブの持ち上げ作業

出典:国立国会図書館|博覧会 近代技術の展示|建設中の様子

さらに、1日10万人を超える入場者がこの水晶宮を訪れたというのだから、この建物がいかほど巨大であったかが分かる。

ちなみに「水晶宮」という名前は、風刺漫画入りの雑誌『パンチ(Punch)』が命名したニックネームのようなものであった。しかし、建物の外観と名前がピッタリと当てはまったのだろう。いつの間にかそう呼ばれるようになった。

ところで、水晶宮はいくつかの偶然や気づきが重なって生まれたものだと説明されることが多い。そのワケは庭師のパクストンの経歴を見るとよく分かるのではないかと思う。


庭師のパクストン

パクストンはベットフォードシャーの百姓の息子として生まれる。初等教育さえ受けないまま、独学で庭造りの技術を習得し、公爵邸や森林園の庭師として雇われることになる。その後、彼の仕事ぶりが評価され、若きパクストンは広い公爵邸の管理を任された。

また、技術者としての実力も発揮しつつあった彼は、後にガラス張りの大温室(横梁は木材)「チャッツワース大温室」を4年かけて作り上げたこともあった。曲線のある優雅な温室で、また建物全体をガラス張りにしたことは、従来の木造の温室からすると革命的なものであった。

Chatsworth Great Conservatory
(built from 1836 to 1841 and demolished in the 1920s.)

ここで「おや?」と思った方もいるかもしれない。そう、水晶宮は今までパクストンが手掛けてきた「温室」が元となっているのである。さらに、彼はここで水晶宮建設の足がかりになる重要な経験をする。それが「ヴィクトリア・レギア」という大水蓮(オオオニバス)の栽培である。

1837年、イギリス人の学者サー・ロバート・ションバーク(Sir. Robert Schomburgk,  1804-1865)が熱帯南米の英領ギアナのバービス川に浮かぶ大水蓮を発見し、その種子を持ち帰った。持ち帰った種子はとある庭園に寄贈されたが、大水蓮の栽培は難しく、開花まではなかなか思うようにいかなかった。

その後、パクストンがその庭園からヴィクトリア・レギアの株をもらいうけ、チャッツワースの温室で栽培し始めた。結果、この大水蓮はピンク色の花を咲かせ、人工栽培は成功した。

Victoria Regia
Illustration by Fitch (1851)

その後、パクストンは順調に成長していた大水蓮の葉の上に、小さな女の子を乗せてちょっとした実験を行ったところ、葉はびくともしなかった。これに驚いたパクストンは、大水蓮の葉の構造を調べたのだが、この構造が温室建設に役立つのではないかと思いついた。

The Gigantic Waterlily(Victoria Regia), In Flower At Chatsworth(1849.11.17)

「The nature was the engineer in the case.(自然が技師であった)」との言葉を残しているパクストンであるが、温室の設計・建築やヴィクトリア・レギアの栽培、そしてちょっとした実験が、歴史に残る名建築・水晶宮の設計につながるとは、彼自身も驚いたのではないだろうか。


ニレの木

水晶宮の建設にあたり、予定地であるハイド・パークの木を切り倒す必要があった。しかし、ロンドン市民はそれに猛反対。ニレの木は、イギリス人にとって強い愛着のある木だったのだ。

そこで、建設委員会はニレの木を切り倒さずに、そのまま水晶宮の中に囲いこむ方法をとった。それに対し、パクストンは一つの解決策をひらめくが、ここでもチャッツワースの温室がヒントとなってくれた。チャッツワースの温室と同じように、半円形の屋根の袖廊を作ったのだ。

A tree in the Crystal Palace during the first Great Exibition(1851)

ニレの木も保護でき、偶然にも彼の建築に優雅さを加えることになった。一石二鳥である。


ロンドン万博開催、水晶宮の賑わい

Louis Haghe(1806-1885)
《Crystal Palace Queen Victoria opens the Great Exhibition》(1851)
Victoria and Albert Museum Collection

開催まで様々な問題を抱えていたが、無事にロンドン万博は開催された。1851年5月1日〜10月15日の141日間の会期で、入場者数は約604万人、1日に平均すると4万3千人もの人が訪れ、多い時だと1日11万人もの人が訪れたと言われている。

ただでさえ、普段のロンドンは交通渋滞で悩まされているというのに、万博期間中はさらに渋滞が悪化。宿泊施設は不足し、宿代は高騰した。訪れた人の数はロンドンの人口の約2倍だか3倍の人だとか、とにかくイギリス全土から多くの人々が水晶宮を目指したワケである。なぜ、これほど多くの大衆を呼び込むことができたのだろうか。


多くの人が訪れることができた背景

The Illustrated London News v.19a(1851.8.2)水晶宮内部(農業ブロック)

出典:国立国会図書館|博覧会 近代技術の展示場|内部・式典

まず、入場料が段階的に変えられていたことが、大量動員の背景の一つになった。階級別に分けられた入場システムによって、上流階級から中産階級、そして労働者階級の人々も呼び込むことができたのである。

さらに、万博期間中ずっと通い放題の“年パス”のような券があったり、曜日によって値段を段階的に変えたりしていた。一番安いのは1シリングの入場日で、これはロンドン万博の展示や雰囲気を楽しむくらいなら、労働者階級でも手の届く額だったのだ。

次に、鉄道網がすでに発達していたことである。ロンドン万博が開催された1850年代までには、イギリスの主要都市のほとんどが鉄道で結ばれていて、移動することがより簡単になっていた。また、ロンドン万博期間は鉄道会社も競争して料金を通常の半分、三分の一にまで大幅値下げしたりしていた。

また、マスメディアの発達も背景の一つにあげることができる。製紙法・印刷術の発展により、従来より安価に、そして大量に印刷できるようになった。新聞や『パンチ』などの娯楽誌は、毎号のように水晶宮の話題を組んで、人々の興味関心をひき続けたのだった。


ロンドン万博の展示物
Crystal Palace interior(1851)

万博は「今の世界の様子を視覚的に体感できる場所」だとか「世界の縮図」だとよく説明される。それでは、ロンドン万博ではどんな展示をしていたかというと、まず、以下のような区分けがされていた。

西半分→大英帝国の展示
東半分→諸外国の展示

[4つの部門]
①原材料
②機械
③工業製品
④彫刻・美術品

一応、部門分けなどがされていたようであるが、すっきりと秩序立って建っている水晶宮とはうってかわって、水晶宮内は様々な展示物で氾濫し、一言でまとめるならカオスな空間だったようだ。人はもちろん溢れかえっていたが、展示物も溢れかえっていたのだ。溢れかえるモノ、モノ、モノ…

その溢れかえる展示物の中で、特に注目され、水晶宮の花形になっていたのは、産業機械の展示であった。しかし、その圧倒的に生産された展示物の量こそ、「機械の時代」と言われた当時の“世界の姿”であり、不統一な空間をもってして、それを象徴していたのだろうと思う。


ロンドン万博終了、その後の水晶宮

博覧会が終わった後、水晶宮をどうするかがすぐに議題にあがった。水晶宮を設計したパクストンは、温室にしてガラスの庭園を作ろうと構想。すぐにロンドン南の郊外にあるシデナムの土地を購入し、そこに水晶宮を移設した。その後、約2年間をかけて展示・装飾用の美術品、植物や花類を各地からかき集め、また、パクストンの夢の一つであったヴェルサイユ宮殿に匹敵するような豪華な噴水を設計した。

そして、水晶宮は1854年に改めて開場。

The Crystal Palace after its move to Sydenham Hill in 1854.

新たに生まれ変わった水晶宮は、ロンドンの人々の憩いの場であった。かつ、集められた美術品は地域別・年代別に分けられて展示され、知見を広める教育的な配慮のある展示空間にもなっていた。

しかし、当初はガーデンとして機能していた水晶宮であるが、時代とともに水晶宮は多目的施設として変化していった。オーケストラやコンサートで使用できるよう舞台が設置されたり、図書館が併設されたり、美術展などの催し物のイベント開場として使用されるようになった。

だが、1866年12月30日の夜、水晶宮北側が火事で焼け落ちた。この日、アルハンブラ館、アッシリア館、ビザンツ館にあった貴重な美術品、そしてパクストンが丹生込めて作った熱帯植物のエリアも焼失してしまった。順調なように見えた水晶宮の経営は赤字続きだったため、結局、北側の再建は実現しなかった。

第一次世界大戦が始まると、水晶宮は海軍予備隊の演習場として使用された。奇跡的に水晶宮は残ったが、水晶宮は老朽化が著しく見られ、建設当初の華やかさは流石に影りを見せつつあった。

そして1936年11月30日午後6時ごろ、水晶宮で火災が発生。主な建設材料はガラスと鉄だったが、床や梁、オーケストラの舞台は木造だったため、辺りはあっという間に炎の海と化した。不幸中の幸い、犠牲者は一人もいなかったが、水晶宮とパクストンらが集めた貴重な美術品もろとも焼失してしまった。

Crystal Palace fire(1936)

ロンドン万博と水晶宮が残したモノ

19世紀のロンドンで華やかな時代を送った水晶宮であるが、最後は火災によって水晶宮に展示してあった貴重な財産が失われてしまった。残っているものと言えば、ロンドン万博の収益金から購入されたケンジントンの土地だ。現在この場所には

科学博物館
博物学資料館
地質学資料館
帝国科学技術専門学校
王立美術専門学校
王立音楽専門学校
ヴィクトリア=アルバート博物館
アルバート・ホール

などといった芸術・科学の中枢となる施設が建ち並んでいる。水晶宮自体はなくなってしまったが、ロンドン万博の収益金から得たこの広大な土地と施設は、後世へ続く貴重な財産になっている。


〈参考〉
・大友克洋『STEAMBOY』(2004)
STEAMBOY公式ホームページ

外務省|2005年日本国際博覧会
万博記念公園|大阪万博
国立国会図書館|博覧会 近代技術の展示場|【コラム】水晶宮の建設とその後
・松村昌家『水晶宮物語 ロンドン万国博覧会1851』(1986)リブロポート
・吉見俊哉『博覧会の政治学 まなざしの近代』(1992)中公新書