佐賀|肥前狛犬を作った3つの石工集団

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2020年撮影

肥前狛犬とは、主に佐賀県周辺で見られる「狛犬」のことである。

素朴で大胆にデフォルメされた形は、とても魅力的で惹きつけられる。狛犬マニアの間でも、興味関心が高い狛犬の一つで、狛犬探訪するなら一度はお目にかかりたいものである。

初期の肥前狛犬は、脚の間や腹の下の部分をくり抜かず、レリーフで表現されていたり、顔は正面を向いていたりするのが特徴だ。大きさは50センチくらいで、小型のものが多い。

しかし、その物珍しさから盗難の被害も多数報告されている。中には、ニューヨークまで売り出された肥前狛犬もいた。その肥前狛犬は、2016年に無事に佐賀県に戻ってくることができ、佐賀県内でも話題となった。

佐賀|NYから佐賀に帰ってきた肥前狛犬

さて、私にとっても不思議な存在である肥前狛犬。絵を描くものとしては、「製作者は誰なのか?」という点が気になるところである。

調べたところによると、肥前狛犬を製作したと思われる、佐賀県内の3つの石工いしく集団の存在が明らかとなった。この地元の石工集団によって、肥前狛犬が製作されたと言われている。


肥前狛犬を制作した石工集団

戦国時代から江戸時代にかけて、九州各県では石工集団が多数存在した。そして、佐賀で活躍した石工集団は以下の3つ。彼らは、各地に集団で居住して生活していた。

【佐賀の石工集団】
 └ 砥川|とがわ(小城おぎ牛津うしづ
 └ 塩田|しおた(塩田・嬉野うれしの
 └ 値賀|ちか(唐津からつ玄海げんかい

石工の技術は、石を加工したり、細工したりするだけではない。他にも、

 ・採石の知恵
 ・石を積み上げる技術
 ・石を組み上げる技術
 ・石を組み合わせる技術
 ・石を加工する道具を作る鍛冶の技術
 ・石を陸や川を使って運搬する技術

など、様々な技術が必要とされる。石工は、これらが総合的にうまく機能して、はじめて成り立つ職であると言える。

また、石工という職業が成り立つには、地理的な面も重要である。砥川・塩田・値賀の地は、いずれも海岸や河川が近くにあり、生産や出荷に適していた。

佐賀の石工集団というと、地蔵などの石仏制作が有名だという話をよく耳にするが、加えて狛犬制作も盛んだったと見られる。また、肥前狛犬と言っても、それぞれの石工集団の地域ごとに特色があるのも面白い点の一つだ。


砥川(小城・牛津)

小城・牛津周辺は、「一(市)に高橋、二(荷)に牛津」と言われ、商都としても栄を見せた。

砥川は佐賀の石工産業の中心となっており、また塩田石工と値賀石工のルーツになったとも云われている。

砥川の近くを流れる牛津川は有明海海運の拠点の一つで、石材や石製品の運搬にも用いられてきた。地理的にも佐賀城下に近く、それが発展のカギとなったのだろう。

特に、砥川の谷集落という所では田畑が少ないことから、昔から石工として生活する者が多かった。この一帯では、石造物をよく見かけることができる。

しかし、砥川石工集団に関する詳しい文献資料は、いまだ確認されていないのだとか。『野田家日記』のような良好な文献資料があるにもかかわらず、砥川石工集団についての記載はないとのことだった。

『野田家日記』
牛津新町の商家・野田家の当主が、安永元年 – 安政5年(1772-1852)までの87年間に渡ってつけた日記。日記には、当時の天候・事件・社会・経済状況・庶民の生活などについて事細かに書かれている。

そのため、彼らについては学術的な位置付けがされていないと考えられる。

谷集落を拠点とした砥川石工集団の活動が、どのようなものだったのかという記録は少ない。しかし、砥川の石エが「出稼ぎ」に行くために申請した、旅切手の許可に関する記事が残されているそうだ。早くとも、江戸時代中期(元禄・宝永・享保・宝暦)には、「出稼ぎ」による業務形態が確立しつつあったのではないかと云われている。


名工・平川与四右衛門

砥川石工の名工といえば、平川与四右衛門よしうえもんである(平河、輿四右衛門とも)。

「平川与四右衛門」は武士の出身だったのか、それとも、優れた作品を制作したことで武士の位を得たのか、定かではない。

佐賀藩には、「被官」と呼ばれる武士と町民・百姓の中間的な身分があった。また、佐賀藩は「兵農分離」がうまく進まず、下級武士の多くは農村に住んで百姓仕事をしたり、城下町に住む者は様々な商売を営んでいたりしたそうだ。

「平川与四右衛門」の作品は、中国仏教の影響を強く受けているものが多いのが特徴的だ。また、木彫仏の流れを含んだような、精巧なつくりをしている。

「平川与四右衛門」の作品は、佐賀県内だけにとどまらない。作品は、牛津川から有明海を通って長崎県や熊本県にも出荷された。「牛津町文化財保護審議会石仏分布調査」によると、「平川与四右衛門」の銘文がある石造物は、県内外合わせて39体におよぶ。

その確認された石仏の大半は、「地蔵菩薩」と「観音菩薩」で占められている。「平川与四右衛門」の銘文がある狛犬は、「印鋪神社(熊本県鏡町)」のみであった。「平川与四右衛門」自身は、肥前狛犬の制作にはあまり携わらなかったのだろうか。

また、先に述べたように、砥川石工集団の記録は少なく未知の部分も多いのだが、「平川与四右衛門」についても記録が少ない。

そのため、銘文から判断するしかないのだが、それによると「平川与四右衛門」の活動期間は約70年におよぶそうだ。そのことから、少なくとも初代から2、3代にわたって世襲されたのではないかと考えられている。


塩田

塩田は職人の町だ。

和紙職人、鍛冶職人、水車を作る大工、そして石工職人がこの塩田の地に多く居住していた。

山に囲まれた塩田の町。その中央には有明海へと注ぐ塩田川が流れている。塩田の町は、塩田川の干潮の差を利用して、船が行き来する「川港」として発展した。この川港は「塩田津」と呼ばれている。

塩田津では、陶石が運搬され塩田で荷下げされた。陶石は水車で加工されたのちに吉田・有田・伊万里・波佐見(長崎県)へと運ばれ、陶磁器の原料ともなった。

また、塩田付近では「塩田石」と呼ばれる青緑がかった安山岩が採石されていた。この「塩田石」は、少しやわらかい石のため加工しやすく、石垣・石階段・敷石・水路・石像・橋など、幅広く使われた。

そして、塩田石工といえば、筒井惣右衛門だ。筒井惣右衛門は、塩田石工の祖だと云われている。筒井惣右衛門は、砥川で修行したのち塩田に戻り、そこで多くの弟子を養成した。

筒井石工の一人である筒井弥太郎の作品は、28歳の青年時代に製作された「大河小保天満宮」の肥前狛犬から、63歳の晩年に製作した「救世神社」の肥前狛犬まで、彼の青年時代から晩年の作品を、肥前狛犬に見ることができる。比べてみるのも面白い。


値賀

桃山時代、豊臣秀吉による朝鮮出兵で、前線基地として名護屋城の築城が急かされていた。この時、砥川の徳永九郎左衛門が石工として参加し、石垣などを作ったと云われている。

その後、徳永九郎左衛門は値賀川内に移住し、唐津石工の祖となった。徳永姓は、唐津石工の代表的家系である。




〈参考〉
・城島正祥 杉谷昭 著『佐賀県の歴史 県史シリーズ41』山川出版社(1972)
・佐賀県高等学校教育研究会社会科部会『佐賀県の歴史散歩 全国歴史散歩シリーズ41』山川出版社(1975)
全国遺跡報告総欄|牛津町教育委員会『牛津町文化財調査報告書14:石工「平川与四右衛門」の軌跡 ー肥前小城郡砥川の名エが残した石仏をめぐって一』(1999)牛津町教育委員会
特定非営利活動法人 NPO潮高満川(しおた)|『長崎街道塩田宿 元禄のむかい風に塩田石工は船出する』(2011)特定非営利活動法人 NPO潮高満川(しおた)
塩田職人組合

佐賀県商工会連合会|塩田町商工会|塩田町歴史探訪
佐賀県の観光情報ポータルサイト あそぼーさが|白壁づくりの塩田津を歩く
元気です!玄海町 玄海町地域振興会|文化財と遺跡