ベニバナの原産は、アフリカのエチオピアだと言われています。その後、エジプトや地中海のルートを通って世界中に広まりました。ベニバナは古代最古の「天然染料」の一つで、古来から世界各地で栽培が行われていました。
紀元前2500年の古代エジプトでは、ミイラを包む布をベニバナの汁で染めることで、防腐・防虫対策をしていました。現在では、生薬や染料、紅花油(サフラワー油:サラダ油的な)などに使われています。日本にはシルクロードを通って、仏教伝来(6世紀末頃)とともにベニバナも伝わったと考えられます。
昔から、自然界から鮮やかな色を手に入れることは、困難を極めるものであり、鮮やかな色というのは、人々にとっては憧れの的でした。紅花の赤の染料もその一つで、金と同等の価値で取引されることもありました。
染料としての「紅花」の別名
染料としての赤い「紅花」は、昔から様々な別名がありました。
【久礼奈為|】
└「紅|くれない」の古い和名
└万葉集などで見られる言葉
【呉藍|】
└中国(呉)から伝わった染料という意味
【韓紅(唐紅)|】
└朝鮮半島から伝わった紅という意味
【末摘花|】
└茎の先端の花びらを摘み取ることから
└万葉集などで見られる言葉
【カルサムス】
└アラビア語、またはヘブライ語
└「染める」という意味
末摘花は、紫式部『源氏物語』に登場する人物、「末摘花」の方が有名かもしれません。
『源氏物語』の常陸宮の姫君
『源氏物語』に登場する常陸宮の姫君は、醜い女性という設定。
すわりぜいが高くて、胴が長いようにお見えになりますので、さればこそとお胸がつぶれるのでした。次に、あゝみっとみないと思われるものはお鼻でした。ふとそれに目が留まります。普賢菩薩の乗物のようです。あきれるほど高く長く伸びていまして、先のほうが少し垂れ下がって色がついている具合が、ことのほかへんとこです。お顔の色は雪も恥ろうほどに白くて、真っ青で、額つきが恐ろしくおでこで、おまけに下ぶくれな面立ちなのは、大体がとてつもなく長い顔なのでしょう。痩せていらっしゃることといったら、気の毒なほどとげとげしくて、肩のあたりなどは痛々しいまでに衣の上からでも見えます。
谷崎潤一郎訳『源氏物語』巻一 中公文庫
彼女の「鼻」の描写で、「先のほうが少し垂れ下がって色がついている具合が…」とあります。この色が赤いことから紅花にかけて、「末摘花」と呼ばれているようです。
余談、『源氏物語』で登場する女性の描写に注目すると、「美しい女性」より末摘花のような「醜い女性」の方が、事細かに描写されいていることが多い。え、そこまで言う?というくらいに。今と「美」の基準が違うので、何が「美しい容姿」とされたのか詳しくはないが、ある基準から逸脱したモノの方が、バラエティに富んでいることの方が多いことから、表現のしがいがあったのだろうか…。
黄色い花からなぜ赤い染料が?
紅綸子地松竹梅鶴亀刺繍文様振袖 紅花資料館出典:『紅花資料館 よみがえる紅花(くれない)』河北町教育委員会, 1994年|27頁
上の写真のように鮮やかな色を放つ紅の着物…。これくらいの真紅を引き出すには、何度も何度も上から染めていく必要があります。しかし、これが天然素材の花から染められているとは、驚きです。
2つの色素
「ベニバナ」は見ての通り、赤身がかった黄色をしています。実は、2つの色素を含んでいるのです。
[サフロールイエロー]
└水に溶けやすい黄色の色素
└ベニバナに含まれる色素のほとんどはコレ
└防腐・防虫効果あり
└黄染の染料になる
[カルタミン]
└水に溶けにくい紅色の色素
ベニバナを水にさらすことで、紅色の色素だけを取り出します。しかし、紅色の色素は1つのベニバナには1%しか含まれていないらしい。残りの99%は黄色の色素です。
花魁たちの憧れだった赤緑に光る口紅
溪斎英泉 《今様美人拾二景 てごわそう》(文政5年(1822)〜6年(1823)頃)紅ミュージアム蔵
下唇を緑で描かれた浮世絵に出会うことがあります。
「江戸時代からこんなパンクでロックなファッション文化があったんか…!!?」と勘違いしそうになりますが、これは「笹色紅」と言って、特に遊女や芸者などの、いわゆる花街の女性たちの間で流行しました。
溪斎英泉 《今様美人拾二景 てごわそう》拡大
江戸時代、ラメ色なんてなかったはず。しかし、紅餅から抽出された赤い沈殿物(=口紅の原料)の紅は、それができました。
面白いことに、水で濡れている時は紅色ですが、乾燥すると赤緑に光る「玉虫色(メタリックグリーンみたいな色)」になります。このメカニズムは、まだ解明されていません。
紅は、とても高価なものなので「何度も塗り重ねる」こと自体できちゃうのが、豪華さと贅沢の象徴。
「一般女性はそんなことできない…けど「笹色紅」って憧れるよね!」
というわけで、墨を塗った上から紅を塗ることで、それっぽく見せていたのだとか。
現在、紅を扱っている化粧品会社のホームページを見たところ…驚愕の値段(笑)当たり前ですが、普段使いはできないですね(墨塗っちゃう?)。栽培自体が少ないからか、今でも紅花から作られた紅は
高価な地位にあるようです。
悲しき言い伝え
ベニバナにわずか1%しか含まれていない紅色のこと、当時の女たちの憧れだった玉虫色の口紅のことを知ると、『おもひでぽろぽろ』のこんなセリフを思い出す。以下、たえ子のセリフ。
この黄色い花から、どうしてあんなに鮮やかな紅色が生まれるのだろう。
『おもひでぽろぽろ』
キヨ子ねえさんが悲しい言い伝えを教えてくれた。
昔はゴム手袋のようなものはない。
娘たちは素手で花を摘み、棘に指を刺されて血を流す。
その血が、紅の色を一層深くしたというのだ。
一生唇に紅をさすことがなかった娘たちの、華やかな京女に対する恨みの声が聞こえてくるような気がした。
ひと握りの紅をとるには、この花びら60貫が必要で、玉虫色に輝く純粋の紅は、当時でさえ金と同じ値段だったという。
『おもひでぽろぽろ』ベニバナの舞台は山形県
『おもひでぽろぽろ』でたえ子がベニバナを摘みに出かけた場所は、山形県が舞台だと言われています。最上川流域では、紅花栽培が盛んで、収穫したベニバナを加工し、「紅餅(べにもち:「花餅」とも)」として京の都や江戸へ出荷していました。
天日干しした紅餅
なぜ山形県なのか
なぜ山形県でベニバナの栽培が盛んだったのか。
その理由の一つとして、「最上川」の存在が考えられています。
歌川広重《六十余州名所図会 出羽 最上川月山遠望》(嘉永6)
舟で最上川を上り、生産された紅餅を都へ運び入れるという舟運ルートがあったことが、紅花栽培や山形の商人が栄える大きなきっかけになったようです。
山形県以外でも紅花栽培・紅餅作りは行われていました。しかし、最上川流域で作られた紅餅は特に「最上紅花」と評価されていて、徳島県・阿波で作られた「藍玉」とならぶ江戸時代の二大染料でした。
また、京の都からの帰りの船では、瀬戸内の塩や仏具、雛人形などが持ち帰られました。今でも街の景観や山形市内に残る蔵屋敷は、紅花交易によって伝わった上方文化と江戸文化の双方を兼ね備えた、独特なものになっています。
紅花の衰退と復興
明治以降、中国や印度からの安価な紅の輸入や化学染料によって、紅花栽培は衰退。さらに、世界大戦渦中の贅沢禁止令で紅花は消滅しかけます。
明治から昭和にかけての最上紅花の栽培は、皇室御用達の品としてわずかに生き残っていました。しかし、量が決められた契約栽培だったため、商品としての生産できるものではありません。
戦後、山形県を代表する県花として、ベニバナの復興・保護運動が盛り上がります。
\紅花に関する豊富な参考資料/
紅花の歴史文化館HP|紅花関係図書一覧