ネットが発明されなかった世界線|それでも人は繋がる方法を見つけるのだろうか

「もしネットが発明されなかったら…」
「もしネットが使えなくなったら…」

これらは、ここ最近ふと考え始めるマイトピックだ。

ネットが発達してどんな情報へもアクセスできるようになり、ネット上で色んな業務や手続きができるようになった。それ自体は、喜ばしいことだ。

きっと、ネットが普及しなかったら、私は外の世界に憧れと少しの嫉妬を抱きながら片田舎で暮らす、情報弱者だっただろうから。

「もしも…」と私が考えてしまうのは、便利になりすぎることに対して、ちょっとした恐怖や危機感を覚えるからだ。

話がちょっとそれるが、「不便利」という言葉を紹介したい。

詳細は忘れたが、どこかの大学の先生が提唱した言葉で、「不便利」とは、簡単に説明すると「ちょっと不便な方が便利」という意味らしい。

例えば、地図。スマホには「Googleマップ」が入っているので、ほとんどの人はそれを使って目的地へ向かうだろう。しかし、普通の紙の地図を使った方が、人は道を覚えるのだという。単純に、「北はこっちで…」「3つ目の角を曲がって…」というように、紙の地図の方が頭を使うからだろう。

「Googleマップ」というツールのおかげで、私たちはどこへでも行けるような能力を得たような気がするが、実は、どこにも行くことができないままなのかもしれない(これが関係あるか分からないが、私は方向音痴だ)。

地図を使って、下手したら地図を使わずに、道や自分が今いる場所を把握することができる能力が、昔の人にどれくらいあったのか分からない。他にも、たくさんの忘れ去られそうな能力・知恵があるだろう。

そのような、人間の能力(知恵?)が、いつか忘れ去られてしまうのではないか、と思う。大袈裟かもしれないが、それが私の感じる「ちょっとした恐怖や危機感」だ。

余談だが、Yちゃん(=私の叔母)の旦那さんは、北の方角を自分の中にセットして、地図を読むのがすごく得意だ。また、学生時代の登山仲間は、山の高さや方角などを把握する方法・知識がある子だった(登山するなら当たり前か)。こういう人もいる。

◇◇◇

「もし、ネットが発明されなかったら…」の世界を想像するのは、結構難しい。私はギリギリのデジタルネイティブ世代だ。ネットが一般家庭にも普及し始めた頃、私は小学生くらいだった。

だから「もし、ネットが発明されなかったら…」の世界を想像することは、できそうでできない、そんな微妙なラインで、思考がグルグルしている。

また、ネットのおかげで「世界と簡単にアクセスできるようになった」ように見えて、実はアクセスできてないのかもしれない。見えているのはパソコンやスマホの画面であり、「知ること」はできても、その身で「体感」することは、日々減少している。

「もし、ネットが発明されなかったら…」の世界線は、もしかしたら、その場で「体験」「体感」することが発達した世界かもしれない。一つの可能性だから、知らんけど。

根源的に、世界を知りたいという探究心が人間の中に存在し続ければ、もしもネットが発明されなくても、何らかの形や方法で、人は世界と繋がろうとするのだと思う。

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