異国の地に生きるもう一人の自分

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ふと、小学校2、3年の頃のことを思い出しました。
当時、私の叔母は福岡の博多で一人暮らしをしていました。

父はたまに私と弟妹を博多に住む叔母の家に連れていき、彼女に遊んでもらっていました。

博多は九州の大都会。佐賀の田舎に住む私たち兄弟にとって博多という場所は、大きなビルや洗練された街並みに圧倒できる場所で、全てが物珍しくて、そして楽しいところでした。




当時、叔母が住んでいたアパートの近くに、結婚式場でしょうか、サンピエトロ大聖堂のような西洋風のドーム状の屋根をした教会があった気がします。なかったかもしれないけれど、そんな記憶が脳内に残っています。

幼い私からすると、そこの周りだけ空気が違っていて。まるで日本ではない場所、異国に見えていました。そして私は、その「異国」に住んでいる叔母のことが羨ましいと思っていました。



夏。よく覚えている光景があります。

その夏も叔母の家にお邪魔していました。近くの市民プールに遊びに連れて行ってもらった帰り道、日がもうすぐ暮れるくらいの、オレンジと薄い青色の空気につつまれるあの時間帯に、その例の教会が見えました。

ふいに、異国の地で生きるもう一人の自分を見たような気分になりました。

一度も行ったことがない場所が、懐かしいと感じてしまう。
この不思議な感覚に、幼い私はしばしの間、空想という名の快楽の中で酔いしれていました。

◇◇◇
(ここから空想ネ)

…ヨーロッパのとある都会。時代背景はわからないけど、私はその都会の下町に住む平民の子供という設定です。

異国の地での生活が日常であるもう一人の私は、母親から頼まれた買い物の帰りに、街のシンボルである教会に立ち寄ります。ステンドグラスが大好きな自分は、教会の入り口の扉から中を覗いて見ようとします。しかし、教会の鐘が鳴ったのをきっかけに、ハッと現実に引き戻されて、家路を急ぎます。

教会の周りには同じような形をした民家がひしめき合っていて、そこを整備されていない道が複雑に入り組んで広がります。初めて訪れるような人は絶対に迷ってしまうでしょう。その道を慣れた足取りで迷わずに、近道になる道を選び取って進む自分。家が見えてきた。家の明かりはオレンジ色。

◇◇◇
(空想から戻ってきたヨ)

『小公女セーラ』『母を訪ねて三千里』『名犬パトラッシュ』などの悲劇のヒーロー・ヒロインが登場するアニメの見過ぎか、どことなく哀愁漂う設定になりがちだった当時の自分の空想物語。

今もそうだけど、空想にふけることはよくあります。

空想にふけるということは、私はその空想の世界の支配者になることができます。それはとても楽しいもので、自分の望むようにコントロールできるし、何にでもなれるのです。

だからこそ、少し成長した時点で、幼い私はあることに気づくことになります。

現実とのギャップが苦しい。

ずっと空想世界という名の異国の地で生きるわけにはいきませんので、なんとか現実と向き合わなければいけない。とはいえ、目の前の現実から目を逸らしたくなることは、子供ながらにも沢山ありました。

現実と空想の間を行ったり来たりしながら、日々を過ごすことも。そしてある時から、空想だけに飽きたらず、その世界をいろんな表現方法で具現化することを試みるようになるのですが、それはもう、創作の域に入っていることと同じです。

とまぁ、そんなこんなで子供の時からあまり変わらずに成長したなと思います。

今でも、現実から逃げたい時は空想の世界に逃げ込みます。でも、そこでフワフワと空想していたことを、何かしらの形にしてみたいとか欲求がムクムクと立ち上がってきたら、「こうしたらどうかな。これ使えそう」とか、もうその方法ばっかり考え始めています。「よっしゃ、ちょっとやってみるか」って。いつの間にかまた現実世界に戻ってきたりしているんですよね。

やっぱり自分、単純です。

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