英語の宿題で、私はこんな英文を作りました(合っているか自信ないけど)。
If we together, we always end up like this.
友達と集まると、夜が明けるまでついつい話しこんでしまうんだよね〜、というニュアンスで「私たちが集まると、いつもこうなってしまう」という文です。
「〜してしまう」は[end up〜]と表現するそうですが、この表現はいわゆるアメリカ人やイギリス人のようなネイティブは、あまり使う人がいないと聞きました。そして、
「日本人はこの表現よく使うよね〜」
と、先生に言われました。確かにそうかもしれない…!「〜してしまう」「してしまった」この表現って便利だと思います。だって、「自分」が悪くならないから。「仕方なく」というような、責任を回避する言葉・ニュアンスが隠れている気がします。
「(私は悪くないんだけどさ、〜のせいで仕方なく)〜してしまう、してしまった」
この表現の真実(?)を知ってから、「自分は悪くない」という感情が見え隠れするこの表現を、使わないようにするとこんな感じになります。
ずっと問題になっている“いじめ”を例にすると、
「私はいじめの傍観者になってしまった」ではなく「私はいじめの傍観者だった」
「私はその子を避けてしまった」ではなく「私はその子を避けた」んです。
なんか、むっちゃ重く聞こえません!?この表現に変えてから、自分にドーンと「罪」が乗っかってきて、「罪」の大きさを認めざるをえませんよね…?
日本語の持つ、物腰やわらかでオブラート包み上手なところ、私は好きです。でも、悪い部分を隠蔽するのにも一役買っちゃう可能性があるんだって気づきました。言葉一つの表現に、やいのやいの言っちゃって、細かいですけどね。でもこの表現、(もちろん私も含め)加害者側の意見からよく聞こえてくるワードなので、ちょっと気になったんです。
◇◇◇
「己の罪に気づく」そして「自分の過ちを認める」って、すごく大変なことだと思います。苦しいことだと思います。自分の汚い部分と向き合うのですから、当たり前です。そして、その「罪」はこれからもずっとついてまわるものかもしれない。
未だに、あの時の自分を思い出して、胸糞悪くて、自己嫌悪に走りがちになるけれど。でも、気づいて認めて反省しないと、それ以上自分が成長することはないでしょう。ずっと「あの時」の自分のまま、歳だけ偉そうに重ねた大人になっちゃうのではないかと思います。
そうなると、「己の罪に気づかない」ということはとても愚かで、悲しいことなのではないでしょうか。また、「過ちを認める」ことは、歳を重ねるごとに難しくなっていくのではないかと思います。
「過ちを認める」って、今までの自分を否定するような行為なので、歳を重ねた分、変なプライドが勝っちゃって「私は(これだけ立派に生きてきたから)悪くない」となっちゃうような…。
だから、まだ自分に柔軟で、失敗をたくさんする子供時代や若い頃は、「過ちを認める」「反省する」ことをすんなりと学べる機会なのかなと思います。
◇◇◇
そして、私の話になりますが、いろいろあって反省の機会を友達から与えてもらった私が、何か大きな事ができるかといえば、そんな大革命は「出来ない」でしょう。
でも、「こんな私のことを許してくれた、こんなすごい人が私の隣にいてくれる」と、心から相手を大切にできて、その子の友達でいられることが、誇りに思いますし、なんて有難いことなんだろうって思います。もちろんこれは「罪」の意識無しに、です。
だから、小さなことですが、私のことを大切に思ってくれる人に、誠実な態度であろうと思います。